ソフィア・ラズモフスカヤ
ソフィア・ステパノヴナ・ラズモフスカヤ伯爵夫人(Софья Степановна Разумовская、Sophia Stepanovna Razumovskaya、1746年9月11日 – 1803年9月26日)は、ロシア皇帝エカチェリーナ2世に仕えた女官。旧姓はウシャコヴァ。 生涯前半生ピョートル3世に仕えていたポーランド系有力貴族ミハイル・チャルトリスキ公爵(1736年 – 1771年)と結婚するも離婚。夫は病弱で子供には恵まれなかった。その後、女帝・エカチェリーナ2世に女官として仕え、宮廷ではあらゆる享楽と色恋沙汰で知られていた[1]。 皇太子パーヴェルの愛妾に1771年、皇太子パーヴェル・ペトロヴィチ大公がチフスに罹患した。この時、ソフィアは女帝からパーヴェルに生殖能力があるのかを確かめるよう依頼され[2]、パーヴェルの愛妾となる。そして翌年にソフィアは男児・セミョーン(1772年 – 1794年)を出産した(因みにセミョーンは後に難破に遭遇し、死亡、行方不明になったとされる。但し、セミョーンの異母弟ニコライ1世の孫の1人で歴史家でもあるニコライ・ミハイロヴィチ(1859年 - 1919年に銃殺)はセミョーンの異母弟でニコライ1世の同母兄にあたるアレクサンドル1世が1825年には死なず、フョードル・クジミッチと名前を変えて修道僧として1864年まで生き延びたという「クジミッチ伝説」についての考察の中でクジミッチがアレクサンドル1世と同一人物である可能性は低いと結論付けている反面、セミョーンがクジミッチの真の正体だと自説を展開している)。 後半生セミョーンの出産からしばらく経った後、キリル・ラズモフスキー伯爵[3]の息子・ピョートル・ラズモフスキー伯爵と結婚した。なお、舅となったキリルは当初、ソフィアとピョートルの結婚に反対したという。 ピョートルとの夫婦生活では子宝に恵まれず、治療のために夫妻はフランスやスイスなどで転地療養を繰り返す。 かつて愛妾として仕えたパーヴェルが1796年に即位するとピョートルはロシアに帰国し、一人残されたソフィアも1803年になって帰国したものの、帰国直後の9月26日に死去。アレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された[4]。 登場する作品
→詳細は「エカテリーナ (テレビドラマ) § シーズン2_2」を参照
脚注
参考文献
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