セリエA (スイス)1897-1898
概要スイスで最初の全国的なサッカー大会が公式記録から除外された根本的理由は、2年前の1895年にすでに設立されていたスイスサッカー協会の関知しないところで開催された点にある。今大会を企画・主催したのは、ジュネーヴのスポーツ新聞「ラ・シュイッセ・スポルティーヴ (La Suisse sportive)」である。大会の運営責任者は、同紙の編集理事フランソワ・デジュリーヌ、編集長で当時セルヴェットFCのラグビー部門キャプテンでもあったエメ・シュワッブの2人だった。優勝カップは、フランスのランスのシャンパン醸造会社「ルイナール」 (Ruinart)の社長親子から寄贈された[3]。 出場クラブ
予選ラウンドグループA後年「シュヴァイツァー・シュポルトブラット」紙が報じたところによると、これがチューリヒのクラブによる今大会唯一の試合だった、との事である。だが実際にはグラスホッパーは決勝ラウンドに進んでいるので、これが最後ではない。その一方でおそらく今大会とは別の意味で、FCヴィンタートゥール、FCフォルトゥナ、アングロ=アメリカン・クラブ・チューリッヒ、FCザンクト・ガレンが試合をしたとも報じられている[4]。
グループB
グループC
決勝ラウンド
第1試合の審判を務めたのはFCバーゼルのゴールキーパー、ヨン・トールマン (John Tollmann)である。2試合目の審判はローザンヌ・フットボール・アンド・クリケット・クラブの選手、フランプトン (Frampton)であった。2試合ともグラスホッパー側の出場選手・得点者・得点時間の詳細なデータが存在する[5]。 脚注
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