セオドア・ロビンソン
セオドア・ロビンソン(Theodore Robinson、1852年6月3日 - 1896年4月2日)はアメリカ合衆国の画家である。1880年代からフランスでクロード・モネと親しくなり、アメリカの「印象派」の代表的画家の一人として風景画、人物画を描いた。 略歴バーモント州のアイラズバーグ(Irasburg)に生まれた。家族とウィスコンシン州のエバンズビルに移った。ロビンソンはシカゴでしばらく美術を学んだ後、1874年にニューヨークに出て、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインやアート・スチューデンツ・リーグで学んだ[1]。1876年にパリに出てカロリュス=デュランに学び、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)でジャン=レオン・ジェロームに学んだ。1877年のサロン・ド・パリに初めて出展し[1]、その夏はアメリカ出身の画家が多く集まったグレ=シュル=ロワンで過ごした。 ヴェネツィアとボローニャへ旅した後、1879年にアメリカに戻り、ニューヨークでスタジオを開き.[2] 、写実的なスタイルの絵を描いていた。 1884年に再びフランスに渡りその後8年間は、たまにアメリカに戻るだけでフランスで過ごした。印象派の大家、クロード・モネ(1840-1926)の邸があり、多くの印象派の画家が集まっていた、ジヴェルニーに移った。モネといつ親しくなったかははっきりしていないが1888年までにはモネの邸のすぐ近くに移るほど親しくなった。この時期にモネの影響を受け、ロビンソンの画風は印象派のスタイルに変わった。 1892年にフランスを後にし、アメリカに戻った後は、ニューヨークのブルックリン美術学校やニュージャージー州プリンストンのイヴリン・カレッジ(Evelyn College)、フィラデルフィアのペンシルベニア美術アカデミーなどで教えた[3]。ニューヨークを拠点にして、ロビンソンはアメリカにおける「印象派」に近い芸術家にとって重要な人物となった。特に親しかった芸術家にはジョン・ヘンリー・トワックトマンやジュリアン・オールデン・ウィアーがいて、彼らが集まった「コスコブ芸術コロニー」でも過ごした。コスコブではヨットクラブを描いた作品がある。 モネには再びジヴェルニーに戻ると手紙に書いていたが、1896年に43歳で病死した。 作品脚注
参考文献
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