スフバータル・ヤンジマー
スフバータル・ヤンジマー(モンゴル語: Сүхбаатарын Янжмаа, 1893年2月15日 - 1962年5月1日)は、モンゴルの政治家。人民大会議幹部会議長の代行を務めた。 経歴1893年2月15日、清統治下のモンゴル、フレーにて貧しい遊牧民の家庭に誕生する。1919年に、ヤンジマーはダムディン・スフバートルの革命グループに参加し、使者として働いた。 1920年、スフバートルがボリシェヴィキと接触を図る為にソビエト連邦に渡った際、ヤンジマーは息子と共にウランバートルに残り、中国当局による逮捕を逃れた。1921年に発生した革命でスフバートルがモンゴルのパルチザンを勝利へと導いた後、ヤンジマーはモンゴル革命青年同盟の一員となった。1923年にスフバートルが死去すると、ヤンジマーは自らの名前に父称であるスフバートルを使用し、その翌年にはモンゴル人民革命党に入党した。 党中央委員会及び中央委員会幹部会の一員として、1924年にモスクワで開催された第3回国際共産主義女性会議と第5回コミンテルン世界大会に、人民革命党を代表して出席した。尚、国際共産主義女性会議では、ドイツの共産主義者であるクララ・ツェトキンと、ウラジーミル・レーニンの妻であるナデジダ・クルプスカヤに出会っている。 1927年から1930年まで東方勤労者共産大学で学び、1933年には人民革命党に新たに設立された女性部門の責任者となり、女性の教育の発展に注力した。また、ヤンジマーは1940年から1954年まで人民革命党政治局員を、1941年から1947年まで党中央委員会書記を務めた。第二次世界大戦中にはソ連を支援する為の資金調達に尽力し、1946年に労働赤旗勲章が授与され、1945年には国際民主婦人連盟のメンバーに選出された。 ゴンチギーン・ブムツェンドの死後、ヤンジマーは1953年9月7日から1954年7月7日まで人民大会議幹部会議長代行を務め[1]、1962年5月1日に首都ウランバートルにて死去した。 脚注
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