ジンプリチシムス『ジンプリチシムス』("Simplicissimus") はドイツの社会風刺週刊誌、文芸誌である。パリで活動後、ミュンヘンに移ってきた出版社主、アルベルト・ランゲンが1896年4月に創刊した。1944年から1954年の間、中断し、1967年まで出版された、1964年からは隔週刊となった[1] 。誌名は1668年のグリンメルスハウゼンの小説、『阿呆物語』("Der abenteuerliche Simplicissimus")からとられている[2][3]。 概要この雑誌に作品を載せた芸術家には、トーマス・マンやライナー・マリア・リルケをはじめヘルマン・ヘッセ、グスタフ・マイリンク、フランツィスカ・ツー・レーヴェントロー、ヤーコプ・ヴァッサーマンといった文学者やハインリヒ・クレイ、アルフレート・クービン、オットー・ニュッケル、ハインリッヒ・ツィレといった美術家がいる。 風刺的な記事もドイツ当局から、あまり厳しく規制されることはなかったが、1898年に皇帝、ヴィルヘルム2世の風刺的な表紙絵を掲載したことにより雑誌は没収され、社主のランゲンはスイスに5年間亡命し、罰金が科せられた。挿絵画家のトーマス・ハイネは6ヶ月の懲役、寄稿者のフランク・ヴェーデキントは7ヶ月の判決を受けた。1906年にも、ルートヴィヒ・トーマが、記事の内容から逮捕され、6ヶ月間、投獄された。このような紛争は、雑誌に注目を集めさせ、刊行部数のピークは85,000部に達した。第一次世界大戦が始まると、戦争遂行に協力するようになった。その後のドイツにおける社会に対する風刺や批判はジョージ・グロスやケーテ・コルヴィッツ、ジョン・ハートフィールドというような芸術家が担っていくことになった。 ワイマール共和国の時代にも、雑誌は出版され続け、左翼、右翼勢力の過激な行動を批判する立場であった。ナチスが次第に権力を握るようになると「シンプリシシムス」で活動する芸術家や作家に対して攻撃や脅迫を行ったが、刊行は禁止されなかった。 ユダヤ人の編集者、トーマス・ハイネは辞任を余儀なくされ、追放された。アルノルト(Karl Arnold)、ガルブランソン(Olaf Gulbransson)、テニー(Edward Thöny)といった美術家によって1944年まで出版が続けられた[4]。第2次世界大戦後、1954年に復刊され1967年まで出版された。 ギャラリー参考文献
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