ド・モーレンシルトは1911年4月4日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では4月17日)に、イェジ・セルギウス・フォン・モーレンシルト (Jerzy Sergius von Mohrenschildt) として、ロシア帝国のマズィル(現在のベラルーシ)で生まれた[3]。上には兄ディミトリ (Dimitri) がいた。父セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・フォン・モーレンシルト (Sergey Alexandrovich von Mohrenschildt) はロシア貴族(英語版)の出自を持ち、バルト・ドイツ人、スウェーデン貴族(英語版)、ロシア人の血を引いていた[3]。
母アレクサンドラの死後、ド・モーレンシルトと父セルゲイは、一家が6エーカーの地所を所有していたヴィルノ(現在のリトアニア首都・ヴィリニュス)へ向かった。ド・モーレンシルトは1929年にヴィルノのギムナジウムを卒業し、1931年にはポーランド騎兵学校 (the Polish Cavalry Academy) を卒業した[8]。また修士号を得るためThe Institute of Higher Commercial Studies(商科大学に相当)に進学した[9]。アメリカ合衆国がラテン・アメリカに与えた経済学的影響に関する論文を仕上げ、1938年にベルギーのリエージュ大学で国際通商に関する理学博士号を得た[10]。
1962年夏、彼はテキサス州フォートワースで、リー・ハーヴィー・オズワルドと、ロシア生まれの妻マリーナ・オズワルドに紹介された。1964年に行われたウォーレン委員会の席で、フォートワースのロシア系アメリカ人コミュニティで有力人物だった、石油業界のジョージ・ブーエ (George Bouhe) の手引きでオズワルドと面会したと証言している。ド・モーレンシルトはオズワルドについて、マックス・クラーク(英: Max Clark、ド・モーレンシルトはFBIのために働いていると考えていた) や、J・ウォルトン・ムーア(英: J. Walton Moore、ド・モーレンシルトは「政府の人間——FBIか中央情報局 (=CIA) のどちらか」と述べている)と議論したと述べている[41][42]。ウォルトン・ムーアは1957年から、ド・モーレンシルトの海外渡航に関して複数回報告を挙げていた[42][43]。彼の直感は正しく、アメリカ合衆国下院暗殺調査特別委員会(英語版)が入手したCIAの機密解除済文書によると、ウォルトン・ムーアはダラスにあるCIAの国内接触部 (Domestic Contacts Division) のエージェントであった[42]。ド・モーレンシルトはオズワルドとの面会直後、ウォルトン・ムーアやフォートワースの弁護士だったマックス・E・クラークに、オズワルドを手助けしても自身は安全なのか訊ねたという。情報を求めたうちのひとりからは、オズワルドは「見たところ安全」("seems to be OK") で、「害の無い変人」("he is a harmless lunatic") だと聞いたと証言した。しかしながら、ウォーレン委員会の席では、この発言を誰がしたのか覚えていないとしている[44]。(1978年に下院暗殺調査特別委員会が聴取した際、ウォルトン・ムーアは「ド・モーレンシルトと『定期的に』接触していた」("had 'periodic' contact with de Mohrenschildt") が、本人がオズワルドに関して心配していたような素振りはなかったと回想している[45][42][46]。この時期、共産主義国を旅した1万人以上の合衆国民について、CIAは定期的な報告書を挙げていた)[43]。ヒューストンでの週末旅から帰宅したある日、ド・モーレンシルトは誰かが自宅に押し入り、個人的な論文やその他の書類を複写していったことに気付いた。この時、オズワルドから読むよう渡された文書もあったため、彼はそれが複写されたのではないかと気付いた。ド・モーレンシルトの1番の心配は、家探しの背後にCIAがいないかということだった。ド・モーレンシルトによれば、ウォルトン・ムーアはCIAの関与についてきっぱりと否定したという[47]。
1963年4月14日、ド・モーレンシルト夫妻はダラスにあったオズワルドのアパートを訪れた。オズワルドの妻マリーナがジーンにアパートを見せて回り、ふたりはクローゼットの壁に立て掛けられたオズワルドのライフル(英語版)を見つけた[49]。ジーンは夫にオズワルドがライフルを持っていたと放したが、彼はオズワルドに向かって、「君がウォーカー将軍を思いつきで撃った張本人なのか?」と冗談を飛ばした[49](エドウィン・ウォーカー将軍は超保守的政治家で、ド・モーレンシルトも「オズワルドが彼を嫌っていたことを知っていた」[49])。オズワルドはこの冗談に対して、発現の張本人へ微笑み返したという[49]。エドワード・ジェイ・エプシュタイン(英語版)によるインタビューの中で彼は、オズワルドがウォーカー将軍を殺害しようとしたに違いないとCIAへ話したと述べている。同じインタビューでは、「私はことの前にも後にもCIAに話をした。そのせいで私は台無しになったんだ」("I spoke to the CIA both before and afterwards. It was what ruined me.") と語っている[47]。ケネディ大統領暗殺事件を調査したウォーレン委員会では、夫妻のオズワルド家訪問直前、1963年4月10日に起こったウォーカー将軍の暗殺未遂事件は、オズワルドの手によるものと結論付けている[50]。直後の1963年6月、ド・モーレンシルトはハイチへと移住したが、その目的は純粋に商業的・地理学的興味のためであったとウォーレン委員会で証言している[51]。
1963年11月22日にケネディ大統領暗殺事件が起こった後、ド・モーレンシルトは1964年4月のウォーレン委員会組織前から証言を続けた。当時ペンタゴンとCIA間のリエゾン・オフィサー(連絡将校)を務めていたフレッチャー・プラウティによると、ド・モーレンシルトは審問の最中に、前CIA長官でウォーレン委員会の委員でもあるアレン・ウェルシュ・ダレスと複数回私的に昼食を共にしていたという[52]。1966年11月、ド・モーレンシルトはハイチを離れて再びダラスに戻ってきた。1967年の間、オーリンズ地区で地方検事(英語版)を務めていたジム・ギャリソンが、クレイ・ショウ裁判(英語版)の一環としてド・モーレンシルト夫妻を審問した。ギャリソンは、夫妻が口を揃えてオズワルドは暗殺計画の生け贄だったと主張していたと述べている。ギャリソンはド・モーレンシルトについて、オズワルドに対する無意識の「ベビーシッターであって……保護役に割り当てられたか、そうでなければオズワルドの一般的福祉を見守るかという役割を与えられた」ひとり ("baby-sitters ... assigned to protect or otherwise see to the general welfare of Oswald.") だと結論付けた[53]。
後の人生、そしてCIA長官への書状
ジョージとジーンのド・モーレンシルト夫妻は、1973年4月3日にダラスで14年余りの結婚生活に終止符を打った[54]。この事実は地元新聞で報じられることもなく、ふたりは夫妻であるように振る舞い続けた[注釈 3]。1976年9月17日、CIAはFBIへド・モーレンシルトの居場所を突き止めるよう指示したが、これは彼が「CIA長官と接触しようとした」("attempted to get in touch with the CIA Director.") ためである[56]。1976年9月5日、ド・モーレンシルトは当時のCIA長官だったジョージ・H・W・ブッシュに支援を求めて書簡を送っている。彼はブッシュ家とも知己を得ており、中でもジョージ・H・W・ブッシュはマサチューセッツ州アンドーバーのフィリップス・アカデミーでド・モーレンシルトの甥エドワード・G・フッカー(英: Edward G. Hooker、兄ディミトリの継子)と同室だった[57][58][59]。手紙には次のように書かれている。
【ド・モーレンシルトからの書状】"You will excuse this hand-written letter. Maybe you will be able to bring a solution to the hopeless situation I find myself in. My wife and I find ourselves surrounded by some vigilantes; our phone bugged; and we are being followed everywhere. Either FBI is involved in this or they do not want to accept my complaints. We are driven to insanity by the situation. I have been behaving like a damn fool ever since my daughter Nadya died from [cystic fibrosis] over three years ago. I tried to write, stupidly and unsuccessfully, about Lee H Oswald and must have angered a lot of people — I do not know. But to punish an elderly man like myself and my highly nervous and sick wife is really too much. Could you do something to remove the net around us? This will be my last request for help and I will not annoy you any more. Good luck in your important job. Thank you so much."[60][61]
(訳文:手書きの書状であることお詫びします。私自身の絶望的な状況に解決策を与えてくれるのではないかと思います。妻と私は自警団に囲まれていることに気付きました。電話は盗聴され、どこに行っても付きまとわれます。FBIさえこれに関与していて、私の苦情を受け付けてはくれません。この状況に気が狂いそうです。娘のナディアが[嚢胞性線維症で]3年前に死んでから、ずっとこんな馬鹿みたいな気持ちなのです。リー・H・オズワルドについて書こうとしてきましたが、愚かにも上手く行かず、大勢を怒らせたに違いないと考えています——確かではありませんが。それでも、私のような老いた男や、すこぶる神経質で病気の妻を罰するのはやり過ぎだと思うのです。我々の周りの網を取り除くのに、何かできませんか?これが最後のお願いで、この先決してお手を煩わせません。あなたの重要なお仕事に幸あれ。大変ありがとう。)
この手紙にブッシュは次のように応じた。
【ブッシュからの書状】"Let me say first that I know it must have been difficult for you to seek my help in the situation outlined in your letter. I believe I can appreciate your state of mind in view of your daughter's tragic death a few years ago, and the current poor state of your wife's health. I was extremely sorry to hear of these circumstances. In your situation I can well imagine how the attentions you described in your letter affect both you and your wife. However, my staff has been unable to find any indication of interest in your activities on the part of Federal authorities in recent years. The flurry of interest that attended your testimony before the Warren Commission has long subsided. I can only speculate that you may have become "newsworthy" again in view of the renewed interest in the Kennedy assassination, and thus may be attracting the attention of people in the media. I hope this letter had been of some comfort to you, George, although I realize I am unable to answer your question completely."
(訳文:最初に、お手紙でお伝えいただいた状況に対して手助けを求めるのがいかにお辛いことだったかお察しいたします。数年前に起こったご令嬢の悲劇的な死、そして現在の奥様の健康状況に対して、お見舞いを申し上げます。現状を伺って大変申し訳なく存じます。手紙に綴られたような注目が、あなたの立場ならばどんなにご夫妻に影響を与えるかよく分かります。しかしながら、[CIA職員の調査では]、ここ数年連邦当局があなたの動きに関心を持っているような様子は見受けられませんでした。ウォーレン委員会前にあなたの証言に寄せられたにわかな興味関心というのは、鎮まって長らく経っています。私から申し上げられるのは、ケネディ暗殺事件に対して新たな興味が湧き、あなたが再び「新聞種に」なって、メディアの人々の注目を集めているのではないかとの推察です。質問の全てには答えられていないのは承知ですが、この手紙で心が安まりますよう、ジョージへ。)
オランダのジャーナリストウィレム・オルトマンズ(英語版)によると、1967年に「オランダの真剣で有名な透視能力者」("serious and famous Dutch clairvoyant")ジェラール・クロワゼが、オズワルドを影で操った陰謀者のビジョンを見たという[62]。クロワゼの描写からオルトマンズはド・モーレンシルトに辿り着き、両者は連絡を取り合うようになる。1977年、オルトマンズはテキサス州へ赴き、ド・モーレンシルトをオランダへと連れ出した[62]。オルトマンズは、クロワゼの元へ連れて行くため、ド・モーレンシルトを精神科施設から救出したのだ、と主張している。オルトマンズによると、クロワゼはド・モーレンシルトこそビジョンで見た人物だと認めたという。オランダ到着後オルトマンズは、ロシア人の友人複数人と彼を誘い出したと話している。一行はブリュッセルへ向かい、ベルギーの中でもフランス語圏のリエージュへ行こうと計画を立てた(オルトマンズはリエージュ近郊の田舎町に邸宅を所有していた)。ブリュッセルへ帰った後、ド・モーレンシルトは散歩に出掛けると言ってそのまま帰ってこなかった。直前にはオルトマンズやその友人と昼食を共にする約束をしていたため、彼はド・モーレンシルトの帰りを待ったが、彼は決して戻ってこなかったという[63]。
自殺
1977年3月16日、ド・モーレンシルトは帰国した。娘が本人と長話をしたが、何かにひどく悩まされている様子で、自殺企図を露わにしていたという。3月29日、ド・モーレンシルトはエドワード・ジェイ・エプシュタイン(英語版)からのインタビューを受け、この中で1962年にダラスのCIA職員J・ウォルトン・ムーアとその協力者のひとりが、フォートワース近郊に住むオズワルドの住所を彼に知らせ、オズワルドを彼がきっと気に入るだろうと示唆したことを明かした。彼はムーアに対して、ハイチのアメリカ大使館から何らかの手助けを得られればありがたいと仄めかしたという。ド・モーレンシルトは「ムーアが許可していなければ、オズワルドと連絡を取ることなど100万年ありえなかっただろう」「[さもなくば]危機に晒され過ぎている」("I would never have contacted Oswald in a million years if Moore had not sanctioned it" / "Too much was at stake.") と述べている[47][64]。エプシュタインのインタビューと同日、ド・モーレンシルトは下院暗殺調査特別委員会(英語版)の調査官だったガエトン・フォンジ(英語版)から名詞を受け取り、是非お目に掛かりたいと申し入れられた[65]。下院暗殺調査特別委員会はド・モーレンシルトのことを「重要参考人」("crucial witness") と考えていた[66]。この午後、ド・モーレンシルトはフロリダ州マナラパン(英語版)で、散弾銃で頭を撃ち抜き死亡した[67]。検死官により自殺と結論付けられた[68]。
1977年4月2日、ウィレム・オルトマンズ(英語版)は下院暗殺調査特別委員会に、ド・モーレンシルト自身から、ケネディ大統領暗殺事件に共謀したと仄めかされたと供述した。また彼の弁護士を務めていたパット・S・ラッセル (Pat S. Russell) は、「間違いなく共謀があったと感じていて、その中身は間違い無くジョージの意見だ」("I definitely feel there was a conspiracy and that definitely was the opinion of George.") と証言した[73]。オルトマンズは密室で3時間あまり証言を行い、委員会の席でド・モーレンシルトから「オズワルドと暗殺のあらゆる側面について議論した」と聞いたと証言した[74]。彼はまた「ド・モーレンシルトからは、オズワルドは自分の指示通り働いており、オズワルドがケネディを暗殺するであろうことは知っていたのだと聞かされた」("De Mohrenschildt told me that Oswald acted at his (de Mohrenschildt's) instructions and that he knew Oswald was going to kill Kennedy") と証言している[75][74]。
1978年7月6日、ジョゼフ・ドライアー (Joseph Dryer) は特別委員会の席で、彼とド・モーレンシルトがジャクリーン・ランスロット (Jacqueline Lancelot) という女性と協力していたことを明かした。ドライアーとランスロットとの協力関係の中には、ドライアーがCIAとの繋がりを持っていると考えたアメリカ国内の人物について、彼女に通告するという業務も含まれていた。ドライアーは暗殺事件直後に、20〜25万ドルという「まとまった」("substantial") 額がド・モーレンシルトの口座に移された事実をランスロットから聞かされた。彼は更に、ド・モーレンシルトは石油調査のためにハイチに来たと話していたものの、正直なところ「何をしていたのか分からなかった」("I could never figure out what he did.") と述べている。彼はド・モーレンシルトが「何らかの諜報機関との繋がり」("some intelligence connection") を持っていたと信じている[76]。
委員会の調査官を務めたガエトン・フォンジ(英語版)は、1963年遅くに「ハイチにあるド・モーレンシルトの口座には、まとまった額の預金が複数回振り込まれ、1度などバハマの銀行から20万ドルが振り込まれたこともあった」("several large deposits popped up in de Mohrenschildt's Haitian bank account including one for two hundred thousand dollars from a Bahamian bank.") と述べている[77]。この一件は、ド・モーレンシルトとクレマード・ジョゼフ・チャールズ(英: Clemard Joseph Charles、当時ハイチのフランソワ・デュヴァリエ大統領の助言者を務めていた)が「(恐らくは)サイザルアサのプランテーションを運営していた頃の出来事だが、事業は打ち捨てられ、2人とも寄りつかなかった」("were 'supposedly' running a sisal plantation, a derelict operation they never went near.") と言われている[77]。
1976年、ド・モーレンシルトに関するCIA内部文書の中で、当時長官を務めていたジョージ・H・W・ブッシュは、「一時期彼は大金を持っていて、湯水のように使っていた」("At one time he had/or spent plenty of money.") と述べている[78]。
もうひとつの裏庭写真
1977年4月1日、ジーン・ド・モーレンシルトは下院暗殺調査特別委員会に対して、マリーナ・オズワルドが撮影したリー・ハーヴィー・オズワルドの写真を提出した[79]。ダラスの家の裏庭に立ち、新聞2誌とライフルを持った上、腰には拳銃を巻いた状態で写っている。暗殺事件後見つけ出されたオズワルドの写真と同様であるが、このコピーの存在は今まで知られていなかった。写真の裏側には、「友人ジョージへリー・オズワルドから」("To my friend George from Lee Oswald") と書かれ、1963年4月5日を示す "5/IV/63" という記載がなされているほか、「著作権:G.d.M.」("Copyright G d M"、ド・モーレンシルトのイニシャル)、更にロシア語に翻訳された「ファシストを追う猟師、ハハハ!」(Hunter after fascists, ha-ha-ha!!!) というフレーズが書かれている[80]。後の筆跡鑑定の結果、「友人ジョージへ」の一文とオズワルドの署名は本人によるものと判定されたが、残りがオズワルド夫妻・ド・モーレンシルトのうち誰の手なのかは分かっていない[81]。ド・モーレンシルトは、マリーナが皮肉を込めて書いたのではないかと推察していた[81]。
ジーン・ド・モーレンシルトは下院暗殺調査特別委員会に対して、"I Am a Patsy! I Am a Patsy!'"(直訳:嵌められた! 嵌められた! )と題された原稿の複写版を提出している[注釈 4]。この原稿はド・モーレンシルトが1976年夏に完成させたもので、彼の「親愛な、親愛なる友人」("dear, dead friend") オズワルドとの関係について自ら綴ったものである。この原稿の中で、オズワルドの凶暴な姿などほとんど知らず、ケネディを暗殺できたような人物ではないと述べている。この推察は、オズワルドの政治的立ち位置に関するド・モーレンシルトの推測と、ケネディのリベラルな考え方から作られたものだった。この回顧録は2014年まで出版されていなかったが、同年にタイプ打ちされた原稿が下院暗殺調査特別委員会の補遺として出版された[76]。
ド・モーレンシルトの文章の主眼は、1962年9月から1963年4月の短期間に、ド・モーレンシルト夫妻がオズワルド夫妻と知己を得た体験をまとめることにあった。第2の目的としては、オズワルド夫妻がド・モーレンシルト夫妻の専門的・私的人生の両方を蝕んだのだと瞑想することにあり、「オズワルド家との短い交流が、我々の人生に奇妙で好ましくない影響を与えたことを知らしめるべきだろう」"It must be acknowledged that our brief friendship with the Oswalds had strange and adverse effects on our lives." と書かれている。文章中ではオズワルドが有罪か無罪かという事実や、誰が真犯人なのかという点には興味が向けられていない。彼の原稿はマイケル・A・リネラ (Michael A. Rinella) が編集・注釈した上、カンザス大学出版局から2014年11月に出版された[83]。
1997年、オランダの映画製作者テオ・ファン・ゴッホは、"Willem Oltmans, De Eenmotorige Mug"(ウィレム・オルトマンズ、単発エンジンのモスキート)と題した映画を発表した。この作品では、1977年の自殺事件までド・モーレンシルトと重ねた交流や、オズワルドの母マーガレット・オズワルド(英語版)への取材についてオルトマンズ本人が話している[84]。
At 2315 hours, on 29 March 1977, this writer made contact with the victim's wife, MRS. JEANNE de MOHRENSCHILDT, in California ... and advised her of her husband's demise; a fact which she had already been made aware of by several newsmen who had telephoned her seeking a story. She stated that she has been married to the victim for the past twenty-one years and noted that over the past several years he has been acting in an "insane manner."[55]
(訳文:1977年3月29日、筆者は犠牲者の妻、ジーン・ド・モーレンシルト夫人とカリフォルニアで接触し、夫の人生の終焉について知らせた。実際のところ、複数の報道関係者が物語を求めて彼女に電話していたため、彼女は既に事情を知っていた。彼女は犠牲者と21年余りの結婚生活を送っており、ここ数年は「正気でない」様子だったと話した。)
^Johnson McMillian, Patricia (2013). Marina and Lee: The Tormented Love and Fatal Obsession Behind Lee Harvey Oswald's Assassination of John F. Kennedy. Steerforth Press. pp. 262–263. ISBN978-1-586-42217-2
^“Testimony of George S. de Mohrenschildt”. Warren Commission Hearings, volume 9. p. 235. 2022年5月23日閲覧。 “G. Walter Moore.〔ママ〕 He is a Goverment man—either FBI or Central Intelligence.”
^ abcd“George de Mohrenschildt”. House Select Committee on Assassinations - Appendix to Hearings, Volume 12, 4. p. 54. 2022年5月23日閲覧。
^ abcd“Testimony of George de Mohrenschildt”. Warren Commission Hearings, vol. 9. pp. 249-250. 2022年5月23日閲覧。 “The closet was open. Jeanne was looking at it, at the gun, and I think she asked Marina "what is that" you see. That was the sight on the gun. [中略] So out of the pure, really jokingly I told him "Are you then the guy who took a pot shot at General Walker?" And he smiled to that, because just a few days before there was an attempt General Walker's life, and it was very highly publicized in the papers, and I knew that Oswald disliked General Walker, you see.”
^Ancestry.com. Texas Divorce Index, 1968–2002 [database online]. Provo, UT, USA: The Generations Network, 2005. Original data: Texas Department of State Health Services. Texas Divorce Index, 1968–2002. Texas, US: Texas Department of State Health Services.
^Kroth, Jerry (2003). Conspiracy in Camelot: A Complete History of the John Fitzgerald Kennedy Assassination. New York: Algora Publishing. p. 130. ISBN978-0875862460
“HSCA Vol.12 deMohrenschildt” (PDF). aarclibrary.org. 2022年5月24日閲覧。 - アメリカ合衆国下院暗殺調査特別委員会(英語版)スタッフによるド・モーレンシルトに関する報告書。彼の政治観に関する分析や、政府との関係についても記載されている。補遺として回顧録 "I Am a Patsy! I Am a Patsy!" のフォトコピーが付いている。