ジョージ・スペンサー=チャーチル (第6代マールバラ公)
第6代マールバラ公爵ジョージ・スペンサー=チャーチル(英: George Spencer-Churchill, 6th Duke of Marlborough, DCL、1793年12月27日 - 1857年7月1日)は、イギリスの貴族、政治家。 1817年まではサンダーランド伯爵(Earl of Sunderland)、1817年から1840年まではブランドフォード侯爵(Marquess of Blandford)の儀礼称号を使用した 経歴1793年、ブランドフォード侯爵ジョージ・スペンサー=チャーチル(後の第5代マールバラ公爵)とその妻スーザン・ステュアート(第7代ギャロウェイ伯爵の娘)の間の長男として誕生[1]。マールバラ公爵家の嫡孫として生誕時よりサンダーランド伯爵の儀礼称号を有していた。 イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学する。イートン校時代には鞭打ちを好む厳格な校長ジョン・キートに対する学生たちの反乱を主導したという[3]。 1817年に父がマールバラ公爵位を継承したのに伴い、マールバラ公爵家の法定推定相続人の儀礼称号ブランドフォード侯爵を継承する。ちょうどこの頃からスーザン・アデレイド・ロウという女性と「ロウソン大尉夫妻」という偽名で同棲生活を送るようになり、ついには偽装結婚式まで挙げるに至った。しかし1819年には母方の第8代ギャロウェイ伯爵の娘ジェーンと正式に結婚した。新聞はこれをブランドフォード侯爵の重婚容疑として報じた。裁判では重婚とは認定されず、慰謝料を出すことで解決したが、この騒ぎでマールバラ公爵家の家名に傷が付いた[4]。 1818年から1820年にかけてはチッパンハム選挙区から選出されてトーリー党(後の保守党)の庶民院議員を務めた。1826年から1835年、および1838年から1840年にかけてはウッドストック選挙区から選出される[1]。 1840年3月5日に父の死によりマールバラ公爵位を継承し、貴族院議員に列する。彼も彼の父も浪費癖が酷かったため、彼が当主をしていた時期にはマールバラ公爵家の家計はかなり逼迫していた。家計の立て直しを図ろうとしたものの、余り功を奏せず、死去時にはひどい家計状態だった。それを隠すために書類を全て焼き払っている[5]。 1857年に死去し、マールバラ公爵位は長男のジョン・スペンサー=チャーチルが継承した。自分の葬儀に100ポンド以上使わないよう遺言していたという[5]。 人物スポーツマンであり、とりわけ釣り・射撃・ヨットを好んだ[5]。 栄典爵位
その他
家族1819年に従妹にあたるジェーン・ステュアート(叔父第8代ギャロウェイ伯爵の娘)と結婚し、彼女との間に以下の4子を儲けた[1]。
最初の妻との死別後の1846年にシャーロット・オーガスタ・フラワー(第4代アシュブルック子爵の娘)と再婚した。彼女との間に以下の2子を儲けた[1]。
2番目の妻とも死別し、1851年に自身と最初の妻の従妹にあたるジェーン・フランシス・クリントン・ステュアート(叔父エドワード・リチャード・ステュアートの娘)と再婚し、以下の1子を儲けた[1]。 出典参考文献
外部リンク
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