ジョージ・シン (第2代カートレット男爵)第2代カートレット男爵ジョージ・シン(英語: George Thynne, 2nd Baron Carteret PC、1770年1月23日 – 1838年2月19日)は、イギリスの貴族、政治家。庶民院議員(在任:1790年 – 1812年)、下級大蔵卿(在任:1801年 – 1804年)、王室監査官(在任:1804年 – 1812年)を歴任した[1]。 生涯初代バース侯爵トマス・シンと妻エリザベス(Elizabeth、旧姓ベンティンク(Bentinck)、第2代ポートランド公爵ウィリアム・ベンティンクの娘)の次男として、1770年1月23日に生まれた[2]。1789年2月24日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1791年にM.A.の学位を修得した[3]。 1794年8月23日にウィルトシャー・ヨーマンリー連隊の中尉に任命され[4]、1799年まで務めた[3]。1803年10月25日、ホーニングシャム志願兵連隊の大尉に任命された[5]。1804年から1808年までウィルトシャー志願兵連隊(Wiltshire Volunteers)副隊長を務めた[3]。 在学中の1790年12月、バース侯爵家が掌握しているウェオブリー選挙区の補欠選挙で未成年(21歳未満)ながらも当選した[1][6]。以降1796年、1802年、1806年、1807年の総選挙で再選した[6]。 廷臣の家系で母の兄弟がホイッグ党の有力者第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクだったため、アディントン内閣は国王ジョージ3世の要請を受けて、1801年3月にシンを下級大蔵卿(Lord of Treasury)に任命した[1]。1804年5月に王室監査官(年収1,200ポンドの官職)に転じ、5月14日に枢密顧問官に任命された[1][7]。 1791年にスコットランドにおける審査法廃止に反対したとされたが、議会ではほとんど演説せず、発言も王室からのメッセージを読み上げる程度という目立たない人物だった[1]。第2次小ピット内閣期(1804年 – 1806年)では小ピット派とされ、親族の第3代ポートランド公爵が首相を務めた第2次ポートランド公爵内閣(1807年 – 1809年)ではポートランド公爵を支持、続くパーシヴァル内閣(1809年 – 1812年)も支持した[1]。1812年7月に王室監査官を退任、同年10月の総選挙をもって庶民院議員も退任した[1]。 1826年6月17日に叔父にあたる初代カートレット男爵ヘンリー・カートレットが死去すると、カートレット男爵位を継承した[2]。 1838年2月19日にミッドロージアンのダルキース・パレスで死去、弟ジョンが爵位を継承した[2]。 家族1797年5月9日、ハリエット・コートネイ(Harriet Courtenay、1771年9月7日 – 1836年4月13日、第2代コートネイ子爵ウィリアム・コートネイの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[2]。 出典
外部リンク
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