ジョージ・カーネギー (ジャコバイト)ジョージ・カーネギー(英語: George Carnegie、1726年11月18日 – 1799年4月12日)は、スコットランド出身のジャコバイト、貿易商人。1745年ジャコバイト蜂起に参加した後、大陸ヨーロッパに逃亡、スウェーデンで20年ほど貿易商人を務めて財を成したのち帰国した[1]。カーネギー投資銀行の前身にあたる貿易会社D・カーネギー社(D. Carnegie & eo.)を創設したデイヴィッド・カーネギーの父[2]。 生涯第2代準男爵サー・ジョン・カーネギーと妻メアリー(Mary、旧姓バーネット(Burnett)、1754年6月5日没、第3代準男爵サー・トマス・バーネットの次女)の六男として[1]、1726年11月18日にスコットランドで生まれ[3]、19日に洗礼を受けた[1]。 家庭教師から商業について学んでいたが、1745年ジャコバイト蜂起の勃発により中断した[3]。プレストンパンズの戦いの後、カーネギーはジャコバイトとしてホリールードでチャールズ若僭王と合流、若僭王がイングランドに進軍したときも彼に従った[1]。1746年のカロデンの戦いに参戦した後[注釈 1]、大陸ヨーロッパに逃亡したのち、ジェームズ・カーネギー・アーバスノット(James Carnegie Arbuthnott)とともに小舟で海に出て、スウェーデン行きの船に拾われた[1]。 カーネギーはヨーテボリで船を降り、そこで商人を生業として過ごした[1]。最初はスウェーデン人に雇われる形で働いたが、1750年代初期に独立し、1758年にヨーテボリで商業活動を行うための市民権を取得した[3]。カーネギーの貿易活動は主にイングランドとの貿易であり、イングランドに錬鉄や木材を輸出して、イングランドから大麦、バター、歴青炭を仕入れたほか、バルト地方からライ麦、麻くずを輸入した[3]。 ヨーテボリに20年間ほど滞在して財を成したのち、カーネギーは帰国して、1767年1月に兄ジェームズの息子にあたる第4代準男爵サー・デイヴィッド・カーネギーからピッタロー(Pittarrow)の領地を購入した[1]。ほかにもチャールトン(Charleton)の領地を購入した[1]。(ただし、1769年に帰国したとする文献もある[3]。) 1799年4月12日にチャールトンで死去、キンナバー(Kinnaber)で埋葬された[1]。息子ジョンが遺産を継承した[1]。 家族1769年3月17日、スーザン・スコット(Susan Scott、1821年4月14日没、デイヴィッド・スコットの長女)と結婚、6男3女をもうけた[1]。
注釈
出典
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