ジョルジュ・クレマンソー
ジョルジュ・バンジャマン・クレマンソー(Georges Benjamin Clemenceau、1841年9月28日 - 1929年11月24日)は、フランスの政治家、ジャーナリスト。首相(在任:1906年 - 1909年、1917年 - 1920年)を2期務めた。 経歴・人物1841年9月28日、フランス西北部ヴァンデ県のムイユロン=アン=パレドで生まれた[1]。 1869年、モンマルトルに移り医師となるが、その後政治家を志し、翌1870年にパリの18区長となった[1]。1871年2月8日、急進共和派の一員としてセーヌ県選出国民議会議員となる[1]。3月20日、議会に80人で構成されるパリ・コミューンの設立法案を提出したが、26日のコミューン評議会選挙では当選しなかった[1]。その後、政府とコミューンの調停工作を行うが失敗し、パリ18区長と国民議会議員を辞任した[1]。その後、しばらく政界を離れたが、同年7月23日にクリニャンクール地区選出パリ市議会議員となる[1]。以降副議長職を経て1875年に議長に就任[1]。 1876年、再びパリ第18区選出の代議院議員に当選[1]。議会の最左翼、急進的社会主義者グループに所属し、リーダーとして活躍[1]。1877年5月16日危機の後、共和派の一員としてアルベール・ド・ブロイ内閣を攻撃、1879年にはブロイ内閣への起訴を要求して人気を得た[1]。1880年、日刊紙『正義』(La Justice)を発行[1]。以降ジュール・グレヴィ大統領期(1879年 - 1887年)を通して政治評論家としての名声を確固なものにしたが、一方で自身は政権をとらなかった[1]。ジュール・フェリー首相(在任:1880年 - 1881年、1883年 - 1885年)の植民地政策を攻撃して、清仏戦争での失態(トンキン騒動)を利用してフェリー内閣を崩壊させた[1]。1885年フランス議会選挙では急進主義政策を提唱してパリ第18区とヴァール県の両方で当選、後者の代表として議員を務めた[1]。翌1886年、組閣を拒否して、右派とともにシャルル・ド・フレシネ内閣の続投を支持、ジョルジュ・ブーランジェ将軍を陸軍大臣として入閣させた[1]。ブーランジェが野心をあらわにすると(ブーランジェ将軍事件)、クレマンソーは支持を撤回してブーランジェ運動への批判の急先鋒になったが、急進派の新聞紙は引き続きブーランジェを支援した[1]。 1887年にダニエル・ヴィルソンの勲章収賄事件を暴露すると、モーリス・ルーヴィエ内閣が総辞職、グレヴィ大統領はクレマンソーに組閣を打診したが、クレマンソーが組閣を拒否するとグレヴィは辞任した[1]。続く大統領選挙では支持者に対しフェリー、ド・フレシネ、シャルル・フロケのいずれにも投票しないよう呼びかけ、「部外者」といえるマリー・フランソワ・サディ・カルノーを当選させた[1]。しかし、ブーランジェへの支持をめぐり急進派が分裂したこと、パナマ運河疑獄においてコルネリウス・エルツとの関係により関与を疑われたこと、露仏同盟に反対したことにより人気を失い、1893年フランス議会選挙で落選した[1]。 落選した後は一旦政界を離れ、ジャーナリスト活動に専念する[1]。ドレフュス事件ではドレフュス擁護の論陣を展開、エミール・ゾラを支援した[1]。1898年1月13日、『オーロール』紙にゾラによる大統領あての公開告発文「我弾劾す」 (J'accuse!)を掲載した。 1900年に『正義』紙を離れて週刊紙『Le Bloc』を創刊、1902年3月まで続いた[1]。また、それまで上院にあたる元老院の廃止を主張したが、1902年4月6日に元老院議員(ヴァール県選出)に選出された[1]。元老院では左派から保守派に転向。 1906年3月にモーリス・ルーヴィエ内閣が崩壊すると、続くフェルディナン・サリアン内閣に内務大臣として入閣、パ=ド=カレー県の炭鉱労働者ストライキ鎮圧に軍を投入した[1]。これにより社会主義派と決裂した[1]。同年10月にサリアン内閣が総辞職すると、クレマンソーは首相に就任、1909年まで務めた[1]。首相としては軍備拡張や帝国主義政策を推進、イギリス、ロシア帝国と三国協商を締結した。 1917年、第一次世界大戦で西部戦線が膠着し、フランス国内に敗戦主義の空気が見られるようになると、レイモン・ポアンカレ大統領に請われ、再度首相に就任し、断固とした戦争政策を強行した。1919年のパリ講和会議では、厳しい対独強硬論、特に多額の賠償支払いを主張し、ヴェルサイユ条約に調印した。 1920年、大統領選挙に敗北して引退。1929年11月24日にパリで死去。88歳没。 エピソード
脚注注釈出典
参考文献欧文文献
日本語文献
関連項目
外部リンク
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