この項目では、スリランカの都市について説明しています。県については「ジャフナ県 」をご覧ください。
ジャフナ (タミル語 : யாழ்ப்பாணம் , シンハラ語 : යාපනය ヤーパナヤ, 英語 : Jaffna )は、スリランカ の都市 。スリランカ最北端のジャフナ半島 の先端部に位置する。北部州 の州都 であり、ジャフナ県 の県都でもある。
ジャフナ郊外のナルア (英語版 ) は13世紀 から17世紀 までの4世紀、ジャフナ王国 の首都であった。ジャフナの町自体は、同王国が滅亡した後の1619年 にポルトガル により建設された。後にオランダ により攻略され、1796年 にはイギリス の支配下に入った。植民地時代から1983年 のスリランカ内戦 勃発前までは、コロンボ 首都圏に次ぐ人口を持つスリランカ第2の都市であった[ 2] 。内戦中は1986年 と1989年 から1995年 にかけて反政府組織タミルイーラム解放のトラ (LTTE) の支配下に置かれており、1987年 にはインド平和維持軍 が駐留した。
地理と気候
ジャフナは都市の西と南をジャフナ・ラグーン (英語版 ) に囲まれており、北にはKokkuvil (英語版 ) とティルネルヴェーリ (英語版 ) が、東にはナルア (英語版 ) の町がある。ジャフナ半島 は中新世 に海面下で作られた石灰岩 の地層からなり、石灰岩は灰色や黄色、白の多孔質からなっている。陸地は全体的に平坦で低地である。市の中心部から1 mi (1.6 km)ほどのマンダイティヴ島 とは土手道 で結ばれている。パルミラヤシ はこの地域の建物の立っていない場所ならどこでも見ることが出来る。その他の植生としては、talai (alae africana) に koddanai(キョウチクトウ )と呼ばれる葉の無い植物を見ることが出来る[ 3] 。
ジャフナの気候は、はっきりした乾季 の無い熱帯雨林気候 である。ジャフナの平均気温はスリランカの中でも高く、27℃にも上る。最も気温が高いのは4月から5月と8月から9月で、逆に最も低いのは12月から1月である。年間の平均降水量の多くは北東モンスーン でもたらされるが、ジャフナ周辺でも地域や年によって変化が大きい。ジャフナ半島の西部では平均降水量は50 in (1,300 mm)に達する[ 3] 。
ジャフナの気候
月
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
年
日平均気温 °C (°F )
25 (77)
26 (79)
28 (82)
29 (84)
29 (84)
28 (82)
28 (82)
28 (82)
28 (82)
27 (81)
25 (77)
24 (75)
27 (81)
降水量 mm (inch)
70 (2.76)
30 (1.18)
20 (0.79)
50 (1.97)
40 (1.57)
10 (0.39)
20 (0.79)
30 (1.18)
60 (2.36)
230 (9.06)
380 (14.96)
260 (10.24)
1,270 (50)
出典:Weatherbase[ 4]
人口動態
ジャフナは歴史的にはタミル人 やムーア人 (ムスリム )、ヨーロッパ人にヨーロッパ系のバーガー人 が多く居住する都市であった[ 5] 。時代の移り変わりとともに、ヨーロッパ人やバーガー人は徐々に同化・移住していき、次第にタミル人とムーア人が優勢になっていった。ヨーロッパ人とスリランカ人は都市の中で異なる地域に居住していた。市内のほとんどの家は控えめなサイズであり、通りはきれいに保たれていた[ 6] 。20世紀になると人口もまた増加し、さらにシンハラ人 もジャフナに移住するようになり、内戦 勃発以前、ジャフナにはムーア人にシンハラ人、インド・タミルそれにその他小さな民族集団が居住していた。
植民地時代、ジャフナはスリランカで2番目に大きな都市であった。独立後もジャフナは首都コロンボ 周辺地域を超える勢いで成長を続けており、1981年 時点でも、ジャフナはコロンボ大都市圏以外では最大の都市の座を維持していた。しかしジャフナの人口は、北部州 や東部州 の他の地域と同様、内戦により深刻な影響を受けた。多くのタミル人が西側諸国や比較的安全なコロンボへと移住 (英語版 ) し[ 7] 、また少数派であったムーア人やシンハラ人はジャフナから追放あるいは逃亡して、都市の人口は30年前の水準を下回るまでに激減した。こうした元住民は内戦期間中に他の地域に定住しており、人口は2009年 の内戦終結後も大きくは回復していない。
ジャフナの人口推移(1880年-2010年) [ 8] [ 5] [ 9] [ 10]
年
1880年
1891年
1901年
1911年
1921年
1931年
1946年
1953年
1963年
1971年
1981年
1994年
2007年
2010年
人口
4,000
43,179
33,879
40,441
42,436
45,708
62,543
77,811
94,670
107,184
118,224
149,000
83,563
84,416
順位
2位
3位
2位
2位
2位
2位
3位
3位
3位
4位
14位
出典
推計
国勢調査
国勢調査
国勢調査
国勢調査
国勢調査
国勢調査
国勢調査
国勢調査
国勢調査
国勢調査
国勢調査/推計
推計
国勢調査
宗教
左: 修復されたモスク、右:
1861年 建立のセント・ジェームズ・チャーチ
タミル人の大半はヒンドゥー教徒 である。キリスト教徒は大半がカトリック で、その他に僅かながらアメリカン・セイロン・ミッションやその他植民地時代の諸教会の後継である南インド教会 のプロテスタント が存在する。ムーア人はイスラム教徒 であり、スンナ派 が優勢であるが北インド やパキスタン から移住した商人には僅かながらシーア派 も存在している。またジャフナには少数ながらタミル人の仏教 徒も存在している。これらの仏教徒は20世紀 に入り大菩提会 の活動により上座部仏教 に改宗した人々である[ 11] 。シンハラ人の多くは仏教徒かカトリックである。
その他、ジャフナにはKuravar (英語版 ) と呼ばれるテルグ語 またはタミル語 の方言を話す非定住の小集団も居り、彼らは季節になるとジャフナを訪れている。タミル人はカースト 制度によりカーストごとに分かれているが、都市部ではカーストよりも社会階級の方が重要とされている。
経済と交通
破壊された工房の前を歩く学生(2007年 )
ジャフナは元々、ヨーロッパ商人により交易都市として設立された。しかしながら、ポルトガル 到達以前のジャフナ王国 の時代からジャフナ港は使用されており、ヨーロッパ商人の活動により広く知られるようになったものである。植民地時代は、布・金銀製品の製造、タバコ・米の加工、その他関連する活動が、ジャフナ経済の重要な部分を占めていた[ 12] 。近代には港が都市の主要な収入源となったが、後にその収入は大幅に減少、現代では漁港として活用されるのみである。内戦 以前、ジャフナには食品加工にパッケージング、家庭向け製品の製造、塩の加工といった幅広い産業が存在していたが、その大半は1995年 以降活動を停止してしまっている[ 7] 。ほとんどの実業家・起業家・ビジネスマンはスリランカの他の地域や海外へと活動の場を移してしまった。しかし内戦が終結した2009年 以降、EUやアメリカ、インドといった外国政府や国内の投資家、海外に移り住んだタミル人からの投資がジャフナ県ならびに都市へと寄せられるようになっている[ 7] 。
ジャフナはスリランカ最大の都市コロンボ から396 kmの距離にある。コロンボとは鉄道 ならびに幹線道路により結ばれているが、いずれも内戦中は切断された状態にあった。1990年 に運行停止されたYal Devi (英語版 ) 列車は[ 13] 、四半世紀を経た2014年 10月にようやく路線の再建が完了し、運行再開となった[ 14] 。都市の主要な鉄道駅はジャフナ駅 である。
ジャフナとスリランカの他の都市を結ぶA9ハイウェイは、鉄道に先駆け2002年 の停戦以後通行可能となっている。この道路には公営と民営のバス路線が運行されている。コロンボ - ジャフナ間の商業飛行にはジャフナ空港 が利用可能である[ 15] 。
施設
写真
ジャフナのストリート
Veerasingham Hall
ジャフナ要塞のモスク
Muneswaranヒンドゥー寺院
スブラマニアン・チルドレン・パーク
ジャフナのホスピタル・ロード
ジャフナの町
脚注
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
ジャフナ に関連するカテゴリがあります。
外部リンク
スリランカの都市
首都 上記以外の都市 (Municipal Councils) 半都市部 (Urban Councils)