ジャバル・ホージャ

ジャバル・ホージャペルシア語: جعفر خواجه‎ Jaʿfar Khwaja, 中国語: 札八児火者, ? - ?)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えた家臣の一人。『元史』などの漢文史料では札八児火者と記される。「ジャバル」とはアラビア語名「ジャファル」の転訛。

概要

ジャバル・ホージャは預言者ムハンマドの子孫たるサイイドの出で、身の丈優れた偉丈夫であったという。同時期にチンギス・カンに仕えた非モンゴル/ウイグル人には耶律楚材の皇族)[1]チュンシャン金朝の貴族)[2]李楨西夏の皇族)[3]らがおり、ジャバル・ホージャも彼等と同様に出自の良さと容貌が優れていることからチンギス・カンに取り立てられたものと見られる[4]

チンギス・カンがケレイト部オン・カンとの戦いに敗れ、敗走してバルジュナ湖に至ったとき、ジャバル・ホージャもチンギス・カンの側に付き従っていた。この時、ジャバル・ホージャはチンギス・カンとともにバルジュナ湖の泥水を飲み、後世「バルジュナの功臣」と称えられる者達の一人に数えられた。

オン・カン率いるケレイト部を滅ぼし、ナイマン部をも平定したチンギス・カンは1206年、モンゴル帝国を建国した。チンギス・カンの次なる征服目標は南の大国の金朝であり、開戦に先立ってジャバル・ホージャは使者として金朝に派遣された。金朝朝廷では冷遇されたものの、ジャバル・ホージャはこの旅路で金朝が居庸関を北方からの侵攻を防ぐ要として頼みにし、城門の修復や精鋭の配備を行っていることを実見し、チンギス・カンに報告した。

この後、チンギス・カンは遂に金朝への侵攻を開始したが、やはり居庸関での攻防が緒戦の山場となった。そこでチンギス・カンがジャバル・ホージャに何か策はないかと尋ねると、ジャバル・ホージャは「ここより北方の林中に騎兵一人がようやく通れる程度の間道があり、そこから奇襲をかけるのが良いでしょう」と答えた。

そこでチンギス・カンはジャバル・ホージャに命じて軽騎兵からなる別働隊の道案内をさせ、別働隊は黎明に居庸関の南口に辿り着いた。この時金軍の大部分はまだ目を覚ましていなかったため、ジャバル・ホージャらの奇襲に対処できず、遂に居庸関は陥落した。後にチンギス・カンが陥落した中都(金朝の首都)にやってきた時、「朕がここまで至ることができたのは、ジャバル・ホージャの功績に拠る所が大きい」とジャバル・ホージャの功績を称賛したという。また、この時チンギス・カンはジャバル・ホージャに四方に向かって矢を引かせ、落ちた矢に囲まれた土地全てをジャバル・ホージャのものとしたという。

この後、チンギス・カンは金朝から引き上げて中央アジア西アジアホラズム・シャー朝との戦いに向かったが、ジャバル・ホージャはムカリ国王らとともに金朝への抑えとして東方に留まった。この頃、全真教丘処機の名声を聞いたチンギス・カンはジャバル・ホージャに丘処機を招聘するよう命じ、ジャバル・ホージャと丘処機は知己の関係になった。ある時丘処機が「公(ジャバル・ホージャ)が欲しているのは自らが栄達を極めることか、それとも子孫が繁栄することか?」と問うた所、ジャバル・ホージャは「百年後まで富貴が続くであろうか。私は子孫が恙なく祖先の祭祀を受け継いでいけばそれで良い」と答えたという。

この後、『元史』によると118歳という長寿を全うしてジャバル・ホージャは亡くなった。死後に涼国公に追封され、武定とされている。

[5]

脚注

  1. ^ 『元史』巻146列伝33,「耶律楚材、字晋卿、遼東丹王突欲八世孫」
  2. ^ 『元史』巻146列伝33,「粘合重山、金源貴族也」
  3. ^ 『元史』巻124列伝11「李楨、字幹臣。其先、西夏国族子也」
  4. ^ 杉山1996,240-241頁
  5. ^ 『元史』巻120列伝7「札八児火者、賽夷人。賽夷、西域部之族長也、因以為氏。火者、其官称也。札八児長身美髯、方瞳広顙、雄勇善騎射。初謁太祖於軍中、一見異之。太祖与克烈汪罕有隙。一夕、汪罕潜兵来、倉卒不為備、衆軍大潰。太祖遽引去、従行者僅十九人、札八児与焉。至班朱尼河、餱糧倶尽、荒遠無所得食。会一野馬北来、諸王哈札児射之、殪。遂刳革為釜、出火於石、汲河火煮而啖之。太祖挙手仰天而誓曰「使我克定大業、当与諸人同甘苦、苟渝此言、有如河水」。将士莫不感泣。汪罕既滅、西域諸部次第亦平。乃遣札八児使金、金不為礼而帰。金人恃居庸之塞、冶鉄錮関門、布鉄蒺藜百餘里、守以精鋭。札八児既還報、太祖遂進師、距関百里不能前、召札八児問計。対曰「従此而北、黒樹林中有間道、騎行可一人、臣向嘗過之。若勒兵銜枚以出、終夕可至」。太祖乃令札八児軽騎前導。日暮入谷、黎明、諸軍已在平地、疾趨南口、金鼓之声若自天下、金人猶睡未知也。比驚起、已莫能支吾、鋒鏑所及、流血被野。関既破、中都大震。已而金人遷汴。太祖覧中都山川形勢、顧謂左右近臣曰「朕之所以至此者、札八児之功為多」。又謂札八児曰「汝引弓射之、随箭所落、悉畀汝為己地」。乗輿北帰、留札八児与諸将守中都。授黄河以北鉄門以南天下都達魯花赤、賜養老一百戸、並四王府為居第。 札八児毎戦、被重甲舞槊、陥陣馳突如飛。嘗乗橐駝以戦、衆莫能当。有丘真人者、有道之士也、隠居昆侖山中。太祖聞其名、命札八児往聘之。丘語札八児曰「我嘗識公」。札八児曰「我亦嘗見真人」。他日偶坐、問札八児曰「公欲極一身貴顕乎、欲子孫蕃衍乎」。札八児曰「百歳之後、富貴何在。子孫無恙、以承宗祀足矣」。丘曰「聞命矣」。後果如所願云、卒年一百一十八。贈推忠佐命功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国、追封涼国公、諡武定。二子、阿里罕、明里察」

参考文献

  • 杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996年
  • 元史』巻120列伝7