ジェームズ・ホープ
サー・ジェームズ・ホープ(Sir James Hope、1808年3月3日 - 1881年6月9日)は、イギリス海軍の元帥でバス勲章の受勲者。東インド・中国艦隊の司令官として、幕末の対日政策に影響を与えた。 経歴1820年、ポーツマスの海軍兵学校に入学。1864年には中将、1870年には大将、1879年6月15日には元帥に昇進した。1865年にバス勲章(ナイト・コマンダー)を授与されている。 1859年から1862年にかけて、東インド・中国艦隊の司令官を務めた。1858年8月26日(安政5年7月18日)、日英修好通商条約が調印され、翌年にはラザフォード・オールコックが初代駐日英国領事に任命された(後、公使に昇進)。この際に英国外務省は、オールコックにホープと連絡をとりあうように訓令を与えていた。日本に到着したオールコックは、江戸市中や東海道で英米の外交使節が投石などによって暴行を加えられていると本国に報告していたが、1859年8月25日(安政6年7月27日)、ロシア艦隊乗組員2名が、横浜市中で何者かの日本人によって殺害されるという事件が発生した。 オールコックは、本国外務省およびホープに対して、可能であれば日本沿岸に一隻の軍艦を常駐させ、有事への備えとすることを提案したが、ホープはこれを拒絶した。現状で日本の開港場に軍艦を常駐させることは、日本人の嫉妬心と警戒心を煽ることになり、有益どころか有害になると考えたためであった。また、当時英国は清とアロー戦争を戦っており、ホープには日本に軍艦を派遣する余力も無かった。このホープとオールコックの対立は、本国の海軍省と外務省を巻き込み、両省は対日政策で対立することとなった。 1861年7月5日(文久元年5月28日)、第一次東禅寺事件が発生し、オールコックが襲われた。ホープは、漸くオールコックの要請を受けるかたちで、8月13日(7月8日)品川に来航した。8月14日と15日、オールコックとホープは幕府首脳と秘密会談を持った。ここに至り、ホープも日本の内外情勢を理解し、オールコックと意見の一致を見た。また、ロシア軍艦対馬占領事件を日本側にたって解決している[1]。
日本での攘夷運動はさらに激しくなっていったが、ホープはその解決には幕府に攘夷派浪士の取締りを強化させることが必要と考えた。また、それを促すには幕府に圧力をかけることが重要で、その手段として日本の海上封鎖を検討した。後にホープの後任として東インド艦隊の司令官となるオーガスタス・レオポルド・キューパーに、海上封鎖が実施可能か調査を命じている。この海上封鎖用の艦隊が、結果としては薩英戦争に使用されることとなった。 1864年には北米・西インド艦隊の司令官を務め、1869年から1872年まではポーツマスで勤務した。 関連項目脚注参考資料
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