ジェラルド・カテナジェラルド・カテナ(Gerardo "Jerry″Catena, 1902年1月8日 - 2000年4月23日)は、ニューヨークのコーサ・ノストラの幹部で、ジェノヴェーゼ一家の副ボスを務めた。ニックネームはジェリー。北ニュージャージーを拠点とし、武闘派だったが流通業界のビジネスに長け、プログレッシブ・マフィアと呼ばれた。 来歴禁酒法時代ニュージャージー州サウス・オレンジ生まれ。親はイタリアのサレルノ移民[1]。若い頃ニューアークの波止場で働いていた。1923年、違法賭博で逮捕されたのを皮切りに強盗、暴行、判事買収など沢山の逮捕歴があった[2][3]。 1920年代、ニューアークのアイロンバウンド一帯でギャング団を率い、強盗や違法賭博を常習していたが、1927年、ユダヤ系の密輸ギャングのアブナー・ツヴィルマンに、酒の武装トラックの護衛で雇われた[4]。違法アルコールは当時ドル箱で、マンハッタンなど商業地への酒の配送はギャングの襲撃に晒され、ツヴィルマンは輸送の安全確保のため、輸送ルート周辺を支配していた地元ギャングのカテナを利用した。ツヴィルマンの信頼を得て、彼の専属ドライバーも務めた。1930年代初め、イタリア系とユダヤ系の合同シンジケート組織が立ち上がると、ラッキー・ルチアーノらイタリア系ギャングへの連絡窓口となった[1]。1930年のツヴィルマンとリッチー・ボイアルド(後のジェノヴェーゼ一家幹部)間の平和協定に関わり、1934年、禁酒法役人殺しの裁判にかけられたニッキー・デルモア[注釈 1]を救うため判事を買収して逮捕されるなど、ニュージャージーのギャング間の仲裁役を演じた[1][6]。ルチアーノ一家(現ジェノヴェーゼ一家)に入ったのは1946年頃とされ[1]、一説に、ウィリー・モレッティの斡旋によるものとされる[7]。 組合と賭博禁酒法廃止後、ツヴィルマンの様々なビジネスに相乗りし、1940年代にはモレッティ、ジョー・アドニスらと幾つものカジノを共同運営した。またニューアークの波止場の組合に進出した[6][8]。1946年、ピンボールマシン会社を立ち上げた[9]。1951年、モレッティが暗殺されるとそのニュージャージーの賭博利権を引き継いだ。1958年、遊技機メーカーの乗っ取りに成功し、スロットマシン製造大手「バリー」のニュージャージー向け供給を手中にした[10]。ニュージャージー各都市のビリヤード場・ボウリング場・雑貨屋にカテナのゲームマシンが置かれた[10]。不動産やオイルリースなど実業の利権を保持し、キューバやラスベガスのカジノに進出した[1]。ニュージャージの洗剤メーカーの組合を支配下に置いた。配下のギャングは大手食品スーパーに製品購入を強制し、反抗する店に放火・爆弾で危害を加え、殺人も行った[11][12]。1964年頃バリーの役員と結託して隠れ株主になっていたことが発覚した時、会社から排除された[10][13][注釈 2]。 ジェノヴェーゼ一家副ボスニュージャージーにおけるジェノヴェーゼ一家の縄張りを管轄した[3]。順調に出世の道を歩み、1957年後半、ヴィト・ジェノヴェーゼが一家のボスになると副ボスに抜擢された[11]。1957年11月、全米マフィアを集めたアパラチン会議に参加し、警察に摘発された[15]。1960年ジェノベーゼが収監されるとトーマス・エボリやマイク・ミランダとの3頭代行体制の中でファミリー問題を実質仕切っていた。ジェノベーゼの死後ボスに繰り上がったエボリの下でも副ボスを務めた。1970年、ニュージャージー州犯罪調査委員会に召喚されたが、証言を拒否し、1970年3月4日、法廷侮辱罪で収監された。1960年代から組織のオペレーションを任せていた配下のフィリップ・ロンバルドに収監前に実権を譲っていた[11]。1975年8月19日、出所した[16]。引退してフロリダ州ボカラトンに隠居した。2000年4月、98歳の長寿で死去した[3]。 プログレッシブ・マフィアスロットマシンやピンボールマシンの独占供給を通じて大富豪になり、1970年時点で1000万ドルの資産を持っていた[9]。地元警察によると、必要時に暴力も辞さない武闘派であると同時に、ビジネスマネジメントに優れ、金儲けがうまかった[9]。 一般のギャングは縄張りに侵入したよそ者を武力排除するが、カテナは分け前の受取と引き換えによそ者を受け入れたので、「プログレッシブ・マフィア」とも言われた[17]。1978年のマフィア関係者の盗聴記録では「神様より金を持っている」と語られ、1986年に雑誌フォーチュンに、「アメリカで4番目にリッチな男」と紹介された[9]。 エピソード
脚注注釈出典
外部リンク
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