シュトルベルク家シュトルベルク家(Haus Stolberg)は、神聖ローマ帝国の帝国伯家の1つ。18世紀には陪臣化されてシュタンデスヘル身分となった。 歴史シュトルベルク伯家の起源については10以上の異なった学説があるが、そのどれもが決定的な定説にはなっていない。おそらく、シュトルベルク家の祖家はハルツ山地の領主家門ホーンシュタイン家(Hohnstein)だと考えられている。名字の地となったシュトルベルク城(Schloss Stolberg)は、1945年のドイツの国境変更に伴う公用徴収が実施されるまで、一族の末裔が所有していた。 文書においては、1210年にシュトルベルク伯ハインリヒ(Graf Heinrich zu Stolberg)という名が初めて確認されるが、この人物はそれより10年前の1200年にはフォークトシュテット伯ハインリヒ(Graf Heinrich von Voigtstedt)として言及されている。おそらくシュトルベルク伯家の最初の本拠がフォークトシュテット(現ドイツ領テューリンゲン州キフホイザー郡)であり、13世紀初頭にシュトルベルク(現ザクセン=アンハルト州マンスフェルト=ズュートハルツ郡)に移されたことを反映していると考えられる。 1429年に相続協定に基づき、ハルツ山地北部のヴェルニゲローデ伯領(Grafschaft Wernigerode)を相続したことにより、シュトルベルク伯家の影響力は大幅に増大した。 1645年、シュトルベルク伯家は兄系であるシュトルベルク=ヴェルニゲローデ家(Stolberg-Wernigerode)と、弟系であるシュトルベルク=シュトルベルク家(Stolberg-Stolberg)の2つに大きく枝分かれした。シュトルベルク=ヴェルニゲローデ家はシュトルベルク=ゲーデルン家(Stolberg-Gedern、1804年絶家)とシュトルベルク=シュヴァルツァ家(Stolberg-Schwarza、1748年絶家)の2つの分家を出し、シュトルベルク=シュトルベルク家からも1706年にシュトルベルク=ロスラ家(Stolberg-Roßla、1982年絶家)が分かれた。 シュトルベルク=ゲーデルン家の当主は1742年、同族の諸家の当主に先立って神聖ローマ皇帝カール7世より帝国諸侯(ライヒスフュルスト)の地位を与えられた。 18世紀、シュトルベルク=ヴェルニゲローデ家はブランデンブルク=プロイセンに、シュトルベルク=シュトルベルク家はザクセン選帝侯領によって陪臣化され、これらの大領邦に実質的に従属するようになった。1806年に神聖ローマ帝国が崩壊すると、シュトルベルク諸家は帝国伯の地位を失い、最終的にプロイセン王国のシュタンデスヘルとなった。 3つのシュトルベルク諸家の当主は、1890年から1893年にかけてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世より侯(フュルスト)の地位を授けられ、その長子(または推定相続人)もエルププリンツの称号を許された。1980年、シュトルベルク=シュトルベルク家の分家の人物がオランダの貴族に列せられたが、その際に侯家としての地位は承認されなかった。 参考文献
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