シャンピオナ・ドゥ・ゲール1939-1940
シャンピオナ・ドゥ・フランス・ドゥ・フットボール1939-1940はフランスサッカーリーグ1部の第8回目のシーズンである。第二次世界大戦中のシーズンのため「シャンピオナ・ドゥ・ゲール」とも呼称される。FCルーアン (北部)、OGCニース (南東)、FCジロンダン・ドゥ・ボルドー (南西)が優勝した[1]。 方式14クラブを北と南のグループに分けて2回戦総当たりのリーグ戦を行い、双方の1位が決勝戦に進出する。フランスのナチス・ドイツに対する宣戦布告と第2次世界大戦の開戦、フランス国民への国家総動員令などの影響もあり、標準的な1グループ制でのリーグ開催はできなかった[2]。 出場クラブ以下38のプロサッカークラブのうち、21クラブが今季のシャンピオナ・ドゥ・フランスに出場した。これより、戦後まで2部相当リーグの開催は途切れる。
通常のリーグ戦形式を断念ナチス・ドイツへの宣戦布告と国家総動員令・戒厳令等により、まず例年通りの9月開幕が不可能となった。サッカー選手たちも数多く徴兵され、スポーツイベントは次々に中止・延期されていく。だが、いわゆるまやかし戦争の時期が始まると、フランスサッカー連盟は行動を開始した[2]。 彼らが最初にやったことは、まずサッカーのプロ契約禁止措置、そして地域リーグとフレンドリーマッチの開催を許可したことである。10月には国際試合をすべてキャンセルし、第一次世界大戦の時のようにクープ・ドゥ・フランス1939-1940を「クープ・シャルル=シモン」という大会名で開催することを決めた。続いて発表したのは、1939-1940シーズンのリーグ戦を非全国リーグ形式で開催する事だった[2]。 まやかし戦争は続き、そして11月になった。リーグ実行委員会は北と南の2ブロックでホーム・アンド・アウェー総当たりのグループリーグを行うことに決め、その1位同士が決勝を戦いシーズン王者を決めるのである[2]。これはアマチュア時代・プロ時代初年度と、シャンピオナ・ドゥ・フランスでは過去に何度も行われてきた形式だった。11月中旬、大戦勃発前にプロサッカークラブのライセンスを持っていた1部・2部リーグの計35クラブが連盟に招かれ、レギュレーションの説明を受けた。 リーグ参加を受諾したのは、23クラブだった。フランス東部のマジノ線付近で行われた民間人疎開計画の影響で、東部のクラブは参加不能であり[2]、RCストラスブールは南仏のペリグーに臨時移転して同地域のリーグ戦に参加していた。ノール県の3クラブや、スタッド・レンネとソショー (非常に憤慨していた)も出場を辞退している。 11月16日、実行委員会は「南北グループステージ+ファイナル」形式での開催を正式決定した。北は10クラブで1グループ、南は11クラブを2グループに分けて行う[2]。RCストラスブールの南ブロック参加、SCフィヴの北ブロック参加は最終的に却下された。開幕は1939年12月3日に決定、北側グループは1940年6月2日終了予定だった。 順位表北部グループ
南東グループ
南西グループ
南仏ファイナル
得点ランキングデータシーズンハイライト徴兵で選手たちを失ったばかりかプロとしての活動も禁じられ、多くのクラブは活動継続も難しい状態にあった。今シーズンに参加したクラブも、徴兵中の選手の一時帰還願いをことごとく却下され、無名の選手ばかりで構成されたチームのクオリティは著しく低下してしまい、結局そのようなリーグで優勝することにも大きな価値を見いだせなくなっていた。そんな中ジロンダン・ドゥ・ボルドーは積極補強と有力なスペイン人選手のおかげで、かつてない好成績を挙げた[2]。 南ブロックではOGCニースとジロンダン・ドゥ・ボルドーが各グループを勝ち抜き、ボルドーが1940年4月28日の南ブロック1位決定戦を制し決勝進出を確定させた。そのころ北フランスでは終了予定日の6月2日に向けてグループリーグ終盤に入ろうとしていたが、しかしクープ・ドゥ・フランスの日程を優先させた連盟の判断がネックとなり、各クラブの消化試合数はバラバラであった。5月10日にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始され、シーズン継続は不可能となった[2]。第2次大戦中のシーズンを全て非公式記録と考えるメディアもあるが (レキップ公式サイトなど[3])、フランスサッカー連盟公式サイトでは、打切り時点で北ブロック単独首位だったFCルーアン、南ブロックA・Bグループを勝ち抜いたニースとボルドーを、いずれも今シーズンの王者と認定している[1]。 脚注注釈出典
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