シボレス (英語 : Shibboleth ) は、ある社会集団 の構成員 と非構成員を見分けるための文化的指標を表す用語であり、シボレスの代表的な例として言葉の発音や習慣 風習 の差異などがある。またこの集団内の観念ではこの差異に正しい/正しくない、優れている/劣っている、といった価値判断 が下される場合がある。
起源
この用語の起源はヘブライ語 の単語shibboleth (שִׁבֹּלֶת )である。そのままでは植物の穂 や穀物 の茎を意味し[ 1] [ 2] 、異なる文脈では「水の流れ」を指す[ 3] [ 4] 。現代的な用法はヘブライ語聖書 の記述に基づく。これによるとshibboleth の発音がエフライム族 を見分けるために用いられた(エフライム族の方言 には音素/ʃ/ が存在せず、ギレアド 人の方言には存在していた)。
士師記 12章によると紀元前 1370-1070年頃ギレアド の住民がエフライム族 との戦闘に勝利した際、生き延びたエフライム族はヨルダン川 を渡って故郷に逃げ帰ろうとしたがギレアド人は川の浅瀬を監視しそれを阻止した。逃亡者を見分け殺そうとしたギレアド人は逃亡者に shibboleth という言葉を言わせた。エフライム族の方言に/ʃ/ が存在しないためこの言葉をsibboleth (סִבֹּלֶת )と発音した者をギレアド人はエフライム族だとみなして殺した[ 5] [ 6] 。 日本聖書協会 による口語訳聖書 において、この逸話は下記のように記されている(士師記 12:5-6 )。
そしてギレアデびとはエフライムに渡るヨルダンの渡し場を押えたので、エフライムの落人が「渡らせてください」と言うとき、ギレアデの人々は「あなたはエフライムびとですか」と問い、その人がもし「そうではありません」と言うならば、
またその人に「では『シボレテ』と言ってごらんなさい」と言い、その人がそれを正しく発音することができないで「セボレテ」と言うときは、その人を捕えて、ヨルダンの渡し場で殺した。その時エフライムびとの倒れたものは四万二千人であった。
問題の2つの語は文語訳聖書 や口語訳聖書 では「シボレテ」と「セボレテ」、新共同訳聖書 では「シイボレト」と「シボレト」になっている。
現代的用法
ドリス・サルチェード による (Shibboleth) (2007), テート・モダン , ロンドン 。
異なる方言を話す集団間の紛争 において、上記の聖書の例のように隠れている対立集団の構成員をあぶり出すためシボレスが用いられた例が数多く存在する。現代の研究者は"シボレス"という用語を(当事者達がこの単語を使用していたかどうかは関係なく)そのような例すべてに対して用いている。
今日のアメリカ英語 においてシボレスはより広範囲の意味を持っており、敵対する集団でなくとも自分たちの集団と他者を区別できる言葉や句のことも指す。一方でイギリス英語 やその他の英語圏ではこの言葉の知名度はアメリカと比べ低くなっている。また広くジャーゴン(専門用語 ・隠語 )の意味で使用される例もあり、用語の使用がある特定の集団に属していることを示すことを指す。
さらなる拡大用法として、シボレスは記号学 では文化における言語以外の要素、例として食事やファッション、文化的価値観などを意味する。
文化的な試金石 や共有した経験などもシボレスになり得る。例えば同年代、同じ国で育った人々は形成期のポピュラー・ソングやテレビ番組など同じ記憶を持つ傾向にある。ある特定の学校の同窓会、退役した軍人、他の集団に関しても同様の事が言える、このような共有する記憶について語ることは集団の絆を強めるため広く行われている。またいわゆる「内輪ネタ 」も共有する経験に基づく同タイプのシボレスと言える。
また非難的な用法として、ある記号が持つ元々の意味が事実上失われ、義務的に用いられているだけになっていることを(単なる忠誠心を判別するだけの)シボレスと表すことがある。
シボレスの例
シボレスは世界中の異なる時代・文化において使用されている。
1302年5月の金拍車の戦い の前、フランドル 人はブルッヘ で見つけたフランス人 を見つけ次第虐殺したが[ 7] 、その際フランドル人はフラマン語 のschilt ende vriend (盾と友)もしくは's Gilden vriend (ギルド の友)という文を言えないものをフランス人と特定していた。一方で中世フラマン語の方言の多くはsch- という子音クラスタを持っておらず、(今日のコルトレイク 方言ですらsk- である)、 中世フランス語のrはフラマン語と同様に巻き舌であったという指摘もある[ 8] 。
Bûter, brea, en griene tsiis; wa't dat net sizze kin, is gjin oprjochte Fries
フリジア革命 (1515–1523)の際、
Bûter, brea, en griene tsiis; wa't dat net sizze kin, is gijn oprjochte Fries ( example [ヘルプ /ファイル ] ) という文がフリジア人 のビーア・カルロフ・ドーニア によって使用された。この文を正しく発音できない船員の船は略奪され、発音できなかった兵士はドーニア自身が殺害した[ 9] 。
オランダ人は沿岸の街スヘフェニンゲン (Scheveningen)の名前をシボレスとして用いてオランダ人 とドイツ人 を見分けた。オランダ語 において"Sch"は"s "と二重音字 "ch"の組み合わせであり、子音クラスタ[sx] となるがドイツ語 では三重音字 "sch"と扱われ[ʃ ] と発音される[ 10] [ 11] 。
1923年 に発生した関東大震災 では震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人 による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり[ 12] [ 13] 、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(方言話者や聾唖者など)が殺傷されるという関東大震災朝鮮人虐殺事件 が発生したといわれる[ 14] [ 15] [ 16] 。
朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌 を歌わせたり[ 17] 、朝鮮語 では語頭に濁音 が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている[ 注釈 1] 。また、福田村事件 のように、方言 を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者 )も、多くが殺された[ 19] 。
1937年10月、スペイン語 でパセリ を意味する perejil がドミニカ共和国 国境沿いに住むハイチ 移民を見分けるためにシボレスとして用いられた。ドミニカ共和国の大統領ラファエル・トルヒーヨ は移民の処刑を命じ、このパセリの虐殺 では2万から3万人が数日の間に殺されたとされている[ 20] 。
1983年 にスリランカ で起きた黒い六月 暴動ではシンハラ人 の若者によって多くのタミル人 が殺された。虐殺の多くはバスの乗客にBAで始まる語を発音させ(例:"Baldiya" – バケツ)、うまくいえない者を殺すことで行われた[ 21] [ 22] [ 23] 。
第二次世界大戦 の太平洋戦線においてアメリカ合衆国の兵士はlollapalooza (ロラパルーザ)という言葉をシボレスとして用い日本兵を見分けた。これは日本語ではLとRの音が混同されることを根拠としており、またこの言葉はアメリカの口語であり、アメリカ英語に詳しい外国の人物でも発音を間違えたり知らない場合が多かった[ 24] 。 ジョージ・スティンプソンのA Book about a Thousand Things, において著者は戦時日本のスパイがアメリカの検問所にアメリカ人やフィリピン人の軍人を装って近づくことがよくあったと記している。この際、"lollapalooza"のようなシボレスが用いられ最初の二音節をrorra, と発音したものは警告なしに射殺したとされる[ 25] 。
北アイルランド問題 において、デリー/ロンドンデリー のどちらの名称を使用するかがその人物の政治的立場を表す指標として用いられた[ 26] 。
ウクライナ侵攻 を受けウクライナ国内ではパリャヌィツャ (ウクライナ語版 ) が正確に発音できるかどうかでウクライナ人かロシア人か判別していた。
フィクションにおけるシボレス
ザ・ホワイトハウス のエピソードに"Shibboleth "と題されたものがあり、ここでバートレット大統領は中国人難民がシボレスという言葉を使用したことから彼らがキリスト教徒 であると確信している[ 27] 。
注釈
^ 日本共産党 員で詩人の壺井繁治 の詩「十五円五十銭」で知られる。当時の手記などに記録が残るほか、後述の福田村事件でも、生存者への聞き取りによれば自警団は疑った相手に対して「『十五円五十銭』をいってみろ」と言っていたという[ 18] 。
出典
^ Wahrig Deutsches Wörterbuch , Sixth Edition and “Schibboleth ”. Meyers Lexikon online . 2015年10月24日 閲覧。
^ 例:イザヤ書 27:12、新共同訳聖書では「穂」
^ “shibboleth ”. American Heritage Dictionary , also sometimes rye, Fourth Edition . 2015年10月24日 閲覧。 “shibboleth ”. Merriam-Webster Online Dictionary . 2015年10月24日 閲覧。
^ 例:詩篇 16:3、新共同訳では「奔流」、口語訳では「大水」
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関連項目