シエ=ル=ギヨーム
シエ=ル=ギヨーム (Sillé-le-Guillaume)は、フランス、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏、サルト県のコミューン。 由来-(i)acumというガリア語起源の所有物や財産を意味する接尾辞、これはガリアまたはガロ=ローマの地名の形式である。-(i)acumは、通常フランス西部では-éをつけられることが多い。最初の要素は、ガリア語の人名研究で、ガロ=ローマ語の人名SiliusまたはSilusである。この人名は、ガリア語のsilo-(種、すなわち子孫や後継者)に基づいている[1]。 同じ意味の地名には、Scilly、Silly、Silhacがある。 フランス革命時代の地名は、シエ=ラ=モンターニュ(Sillé-la-Montagne)であった[2]。 歴史ギヨーム1世・ド・シエは、戦略的要所における最初の要塞の建設者であり、封建貴族家門シエ家の開祖である。シエ家はブルトン人やノルマン人からの襲撃に対抗する、メーヌ伯に仕えていた。森の中、湖の端にある第二の要塞の遺構、カロリング朝時代のオッピドゥムが静かにたち、全ての謎を守っている。さらに、伝説によれば、『満月の夜、オッピドゥムの周りを歩いて3度"私はここにいるぞ"と言うと、湖が沸き立ち、悪魔が姿を現す。』という。 ジャンヌ・ダルクの友でシエ家のいとこにあたるジル・ド・レは、この地方にいるイングランド人と戦うようになった[3]。シエの地には広大で強力な男爵領が置かれ、この時代に城はコレ―ジュ設置のため町の地位に昇格し、婚姻によってフランス革命まで続いた。 19世紀終わりのシエ=ル=ギヨームは、農業の交差点であり、見本市が頻繁に開催されていた。周囲の人口は6000人から7000人だった。現在もまだマルシェ=ベスティオー広場が残っている。 1917年、シエ=ル=ギヨームにポーランド軍編成のためポーランド人キャンプが設置された。現在目に見える痕跡はない。 1919年4月17日、フランス軍用列車とアメリカ軍用列車が衝突した、シエ=ル=ギヨーム鉄道事故が発生した。全体でフランス側死者6人、アメリカ側死者15人で、大勢の負傷者が出た[4]。 ナチス・ドイツのフランス侵攻末期の1940年6月19日、ドイツ兵が第208植民地砲兵連隊に所属する14人の黒人捕虜たちを殺害した[5]。 人口統計
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[2]、2006年以降INSEE[6][7] 史跡
姉妹都市脚注
|