シェモヴィト4世
シェモヴィト4世またはジェモヴィト4世(Siemowit IV / Ziemowit IV、1352年頃 - 1426年)は、マゾフシェ諸公の1人で、プウォツク公を称した。チェルスク、ラーヴァ、プウォツク、ゴスティニンなどを領した。マゾフシェ公シェモヴィト3世の次男、母はオパヴァ公ミクラーシュ2世の娘エウフェミア。 生涯父シェモヴィト3世は、自分の領国をシェモヴィト4世とその兄ヤヌシュ1世との間で分割相続させた。1381年にヴィシュを、1387年にベウツを相続した。1382年、ハンガリー王・ポーランド王のラヨシュ1世が死ぬと、シェモヴィト4世はポーランド次期国王候補に挙げられた。翌1383年にクヤヴィを征服したが、マウォポルスカの貴族達とハンガリーの軍勢によって直ちに撃退された。1386年、シェモヴィト4世はリトアニア大公でポーランド王に選ばれたヨガイラ(ヴワディスワフ2世)の配下に入ることを認め、ポーランド王国の世襲の封臣となった。そして翌1387年、ポーランド王の妹アレクサンドラと結婚し、ベウツとその一帯を与えられた。 ヴィズナ、ザフクシェ、プウォンスクなど、シェモヴィト4世はその領地の多くをドイツ騎士団に奪われた。これらの領地を取り戻すべく、1409年から1410年にかけて行われたポーランド・リトアニア・テュートン戦争に参加している。グルンヴァルトの戦いでも、3つの部隊を率いてポーランド側に立って戦った。 子女1387年、リトアニア大公アルギルダスの娘アレクサンドラ(ポーランド王、リトアニア大公ヴワディスワフ2世の妹)と結婚し、妻との間に5男7女をもうけた。
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