サン=ヴァースト=ラ=ウーグ
サン=ヴァー=ラ=ウーグ (Saint-Vaast-la-Hougue)は、フランス、ノルマンディー地域圏、マンシュ県のコミューン。 地理コミューン内をセール川が流れる。コタンタン半島北部の東岸にあり、マリーナを擁する。コミューンの沖合数kmに浮かぶタティウ島も、コミューンに含まれている。干潮時には徒歩でタティウ島へ渡れ、港との定期的な往復には水陸両用車が用いられる。島にある塔は1694年、ヴォーバンの弟子バンジャマン・コンブによって建てられた。 南にあるラ・ウーグ砦も、1694年に同じくバンジャマン・コンブが建設した軍事拠点で、年に1回、ヨーロッパ文化遺産の日に一般公開されている。 港には大型トロール船が停泊し、干潮時にはタティウ島との間にカキの養殖場が姿を現す。ノルマンディー最古のカキ養殖の流域であった海岸は、サン=ヴァースト=ラ=ウーグにおいて海洋活動が何より優位であることを証明している[1]。 由来教区は、6世紀にアラスとカンブレーの司教であった聖ヴァースト(fr)に捧げられていた。Hougueはコタンタン半島では一般的な名称で、北ゲルマン語群のhaugrから派生しており、高さを意味する[2]。 フランス革命後の国民公会時代(1792年から1795年)、コミューンの名はラ・ウーグ(La Hougue)、そしてポール・ラ・ウーグ(Port-la-Hougue)にされていた。1888年までサン=ヴァーストの名を採用し、その後サン=ヴァースト=ラ=ウーグとなった[3]。 歴史1346年のクレシーの戦い前、イングランド王エドワード3世は、パリ攻略の遠征を始めていた。彼は新しい上陸地点を用意した。彼の敵であるフランス王は、有力ノルマン貴族でサン・ソヴール・ル・ヴィコント領主ジョフロワ・ダルクールを追放し、ダルクールはイングランド宮廷へ亡命した。このように、エドワード3世がコタンタン半島へ自由に往来する完璧な口実が与えられた。7月11日、イングランド王はポーツマス、サウサンプトン、ワイト島の港を千隻の船で満たし、帆をはらせた。翌日、要塞化されていないサン=ヴァースト=ラ=ウーグに2万人の兵力とともに王は上陸し、ノルマンディーを占領した。 1692年、バルフルール岬とラ・オーグの海戦では、提督トゥールヴィル率いるフランス海軍と英蘭艦隊の衝突がバルフルールで発生した。激しい戦闘の後、11隻のフランス艦船はサン・マロへ戻ることができず、ラ・ウーグおよびタティウ周辺で座礁し、炎上した。 侵略者からサン・ヴァースト湾を守るため、この敗北を教訓に1694年からラ・ウーグとタティウの丘の上に2つの要塞化された塔の建設が、ヴォーバンの門下生バンジャマン・コンブによって始められた。この要塞は19世紀まで使われていた。 19世紀、サン=ヴァーストの港が配備された。1828年から1845年にかけて大桟橋が、1846年から1852年にかけドックがそれぞれ整備された。その後防波堤が追加された。防波堤は1982年まで開いたままであった。それ以降は漁港とマリーナの間で共有される入り江を人工的に作るために閉じられている。 1944年、サン=ヴァースト港は、連合国側によって最初に解放されたマンシュ県の港となった。 人口統計
参照元:1999年までEHESS[4]、2004年以降INSEE[5][6] 経済カキ養殖が非常に有名であり、複数の業者がフランス国内や海外と売買を行っている。サン=ヴァースト=ラ=ウーグはノルマンディーにおけるカキ養殖発祥の地であり、カキ養殖棚が250エーカーの面積で広がる。 漁港とマリーナの水深は深く、満潮になると航行可能である。コタンタン沿岸の東側海岸であることの恩恵を受けている。1980年以来稼動するマリーナは、665隻の船が収容されている。 観光も重要な産業で、サン=ヴァースト=ラ=ウーグはリゾート地としてホテル、レストラン、キャンプ場を抱える。2011年4月以降、サン=ヴァースト=ラ=ウーグはコミューヌ・トゥーリスティック(fr)のラベル認定を受けたコミューンである[7]。 農業では野菜栽培が行われる。 史跡
ゆかりの人物姉妹都市脚注
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