サン=テティエンヌ=オ=モン
サン=テティエンヌ=オ=モン (Saint-Étienne-au-Mont)は、フランス、オー=ド=フランス地域圏、パ=ド=カレー県のコミューン。 町は、数km離れていて地元住民には独立しているようにみなされている、非常に異なる2つの地域にまたがって人口5000人が暮らしている。東側が都市化されたポン・ド・ブリックで、西側が農村地帯のエコーである。 地理フランス北部にあるサン=テティエンヌ=オ=モンは、ブローニュ=シュル=メールの南5kmのところにある[2]。 コミューンは、数km離れた2つの地域に分かれている。
2つの地域はどちらも同じコミューンである(役場はポン・ド・ブリックにある)が、地元住民はしばしば2つは独立した存在であるようにみなしている。 町はブローネ地方に属している。エコー集落は標高約100mの丘の上にあるが、一方でポン・ド・ブリックはリアーヌ川沿いにあり、川床が島に伸びている。西側のエコー山地はエコーの森とエコー砂丘からなる。エコーの砂浜は全長2555mあり、エスキエン浜とアルドゥロ浜の間、山地の背後にある[3]。 コミューンの北側はリアーヌ川と隣接する。リアーヌ川は全長36.7kmあり、ブローニュにてマンシュ海峡に注ぐ。ワレンヌ川とカシェーヌ川はエコーが水源の河川である。ワレンヌ川はマンシュ海峡に注ぎ、カシェーヌ川はリアーヌ川に合流する。町は、2012年11月1日から3日にかけてポン・ド・ブリックのリアーヌ川近くで発生した、洪水や土砂崩れをきっかけに、自然災害の状態であると認識されている[4]。 コート・ドパールにあるため、町は海洋性気候である。気温のふり幅は狭く、冬は穏やかで夏は涼しい。降霜や降雪は非常に少ない。風は常に活動的で、吹く方向に応じて気候に大きな影響を与える。西からの風が比較的清浄な空気をもたらし、沿岸に雲を押し込む。北または東からの冷たい風も吹く。 由来サン=テティエンヌ=オ=モンフランス革命の間、コミューンはオディスク(Audisque)にちなみサン=テティエンヌと呼ばれていた。1937年に現在の名称となった。この名前は、エコーの教会が建っているサン=テティエンヌ山にちなんでいる[5]。 エコーエコーの17世紀のつづりはElcauであった。18世紀にはEcauxとなった。住民は自らをエコートワ(Écaultois)と呼ぶ。 ポン・ド・ブリックポン・ド・ブリックという用語の中で、briquesは同じ名称である『レンガ』とは何の関係もない。これは古いゲルマン語で、橋を意味するbrickeからきており、直訳するとポン・ド・ブリックとは『橋の橋』となる[6]。住民の自称はポン・ド・ブリコワ(Pont-de-Briquois)である。 歴史古代、サン=テティエンヌ=オ=モンの土地はベルガエ族のモリニ族(en)が占領していた。リアーヌ川は豊富な水を運ぶ川で、河口は潮が満ちると事実上の湖となり、隣接するコミューンのイスクに達するほどだった(村の名前はケルト語で水を意味する言葉が起源である)。干潮になると、湖は通り抜けられない潟となった。 2つの岸、ウトロー半島、ブローニュとリアーヌ川南岸の地域とをつなぎ、かの地はGesoriacumと呼ばれていた。また、荒れ狂う河川を止めるために、谷が狭くなるイスクの下流側に橋を架けた。これがポン・ド・ブリックの人口密集地の起源である。古代ローマの歴史家フロルスの一節は、この橋がティベリウス帝の弟大ドルススの時代である、紀元前12年から紀元前9年の間に建設されたことを示唆している。 さらに、1世紀から2世紀の間につくられたガロ=ローマ時代の小さな定住地が、エコーで2004年に発掘された。日常の道具に加えて、6軒分の住宅の基礎の周りには、廃棄された堆積物が発見された。この堆積物から、金属加工の職人がいたとわかった[7]。 ポン・ド・ブリックの地名は、1278年に書かれた憲章で初めて言及される。このことは、ポン・ド・ブリックがブローニュ郊外の最も端であったことを意味している。橋はブローニュとアミアンの間の道でもあった。この道はアタンの盆地でカシャンを横断してブローネ地方に入ってきた。13世紀の公文書では、1121年頃にムスティエ・サンテティエンヌという教会があったことを報告している。この教会は、現在のエコーの教会の起源だろう。教会は14世紀にイングランド軍によって大規模に破壊されている。1630年、教区司祭ルイ・マケは教会を再建しようとしたが、適切な結果を得られず失敗している。 1803年から1805年にかけ、ナポレオン・ボナパルトは、イギリスへの攻撃準備のため、ブローニュ=シュル=メールの周囲にあった軍の野営地に移動した。ブローニュ駐屯地は、大陸軍になる大西洋岸軍を迎えた。皇帝はポン・ド・ブリックにある小さなシャトーに住まいを構えた(このシャトーは現在、隣のコミューン、サン・レオナールにある)。このシャトーを住まいとしたのは、ブローニュと往来が容易なこと、駐屯地がリアーヌ川沿いにあるのが理由である。 第二次世界大戦中、ブローネ地方の他のコミューンと同様に、コミューンは大規模な被害を受けた。具体的には、戦争が終わってから、エコーに残っていた住宅は数軒にすぎなかったのである[8]。 人口統計
source=1999年までLdh/EHESS/Cassini[5]、2004年以降INSEE[9][10] 友好都市
脚注
|