サン=ジロン (Saint-Girons、オック語:Sent Gironç)は、フランス、オクシタニー地域圏、アリエージュ県のコミューン。
地理
市街は山や高原、丘陵とは対比をなす盆地にある。大西洋と地中海に挟まれているため、古代にサン=ジロンからピレネー山脈のふもとへは塩の道が通じていた。現在のサン=ジロンは、フランスのアキテーヌ南部とスペインのカタルーニャ北部とを結ぶ道路上にある。
歴史
まちができたのは相対的に後だが、その歴史はローマ人がつくった近郊のコミューン、サン=リジエと切り離すことはできない。軍事上の要所であったため、ローマ人はLugdunum Consoranorumという名のまちをつくったのである[2]。ピレネー山麓にいたガリア系のコンソランニ族がそこの市民であった。またこのまちは1789年まで司教座が置かれていた。逆に、サラ川沿いのサン=ジロンの位置は長い間知られていなかった。サン=リジエの聖なる木(fr)は現在のサン=ジロンの中にあり、リュク地区はLucusにちなんでいる。1905年、古い駅周辺の土の中からガロ=ローマ時代の葬式に利用されたCippus(死者を悼む碑文を刻んだ柱)が見つかった。それはPrimillice家のPompeiaという若い女性に捧げる碑文だった。彼女はサン=リジエの知事の娘であった。
約1100年頃サン=ジロンがまちとみなされるようになったあと、西洋は大きな変化を体験した最初の千年紀を迎えていた。キリスト教は迫害されず、経済的にも人口統計上も発展していった。前世紀に山に隠れ信仰を守ってきた人たちは他との往来が少なく、その子孫たちは平野やまちへ下りて行き、新しいまちをつくることもあった。13世紀、市街がサラ川の対岸に広がり新たな地区ヴィルヌーヴが誕生した。まちは城壁に囲まれて徐々に大きくなっていった。
19世紀、まちは城壁を大通りに変えていった。まちにサン=ジロン駅ができて鉄道が開通すると、ブッサン-サン=ジロン線にトゥールーズ-バイヨンヌ間の路線がつながった。路線は隣接県に接続するようつくられていた。フォワやルズ川谷、カスティヨンに向かって丘を登る他の路線である。サラ川谷を通るよう建設された線もあった。この路線はピレネー山脈中のサラウ・トンネルを通ってスペインまで接続される必要があった。
1960年代、トゥールーズへの旅客輸送が終了、1970年代に貨物輸送が終了した。その後道路輸送が鉄道輸送を引き継いだ。往時の姿を残しているのは現在も残る駅舎だけである。サン=ジロンにやってきた貨物列車が運んだのは、レダールの製紙工場に運ぶ木材であった。この産業は19世紀に地元有数のものであったが、2008年に工場は閉鎖された[3]。
人口統計
1962年
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1968年
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1975年
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1982年
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1990年
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1999年
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2006年
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7368
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7971
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8130
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7260
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6596
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6254
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6533
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参照元 = Cassini[4]と INSEE[5],[6]
姉妹都市
脚注