サン=ジャン=カップ=フェラ
サン=ジャン=カップ=フェラ (Saint-Jean-Cap-Ferrat)は、フランス、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏、アルプ=マリティーム県のコミューン。Ferratとは、ラテン語で『原始のまま』『文明化されていない』を意味するFerrus、または『草深い』を意味するferratusに由来する。 地理サン=ジャン=カップ=フェラは、コート・ダジュールのモナコ=ニース間に位置し、地中海に面する。コミューンはヴィルフランシュ=シュル=メールとボーリュー=シュル=メールにはさまれており、フェラ岬半島全体がコミューンに含まれている。半島には500軒以上(その多くが豪奢な邸宅)の、花やヤシノキ、アレッポマツ、オリーブの木が植栽された住宅がある。その中でも最も有名なヴィラ、エフリュッシ・ド・ロチルドは1934年に国家所有となった。この半島は新しい建物の建設を監視する場所に分類されている[1]。 歴史古くはAnaoという名だったサン=ジャン=カップ=フェラは、リグーリア人の土地だった。575年にはロンゴバルド族が支配した。中世初期、サントスピスの塔が孤立して半島東側に建てられた。8世紀にサラセン人に征服された。 ニース伯領が後退した1388年、サン=ジャン=カップ=フェラはサヴォイア家領となった。サン=ジャン=カップ=フェラは戦略上要所とされ、エマヌエーレ・フィリベルト公時代の1562年、サントスピス砦が築かれた。フランスがニースを攻略しようとした1707年、フランス軍の将軍ジェームズ・フィッツジェームズが、サントスピス砦を攻略し破壊した。 サン=ジャン=カップ=フェラは1720年から1820年までの間に幾度かフランスに占領されたが、ニース伯領全体とともにフランスに併合されたのは1860年であった。サン=ジャン=カップ=フェラは1904年まで行政上はヴィルフランシュ=シュル=メールの一部であった。 現在のサン=ジャン=カップ=フェラは、コート・ダジュールの主要な高級住宅地のひとつで、当然その多くが富裕層の住宅である。なおイギリスの人気作家だったサマセット・モームは、1926年から大戦による中断をはさみ、1965年に91歳で没するまで居住した。 経済コミューンの主要収入のひとつは観光で、夏の観光シーズンには海水浴場に毎年多くの観光客がやってくる。加えて、不動産価格が国内でも非常に高く、1m2で平均44,000ユーロ、60,000ユーロ以上する所もある[2]。 みどころ
脚注
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