コンラート1世(ドイツ語:Konrad I., 1040年ごろ - 1086年8月8日)は、ルクセンブルク伯(在位:1059年 - 1086年)。
生涯
ルクセンブルク伯ギゼルベルトの息子で、1059年に父の跡を継いでルクセンブルク伯となった。コンラート1世は、トリーアのザンクト=マクシミン修道院に関してトリーア大司教との対立に巻き込まれた。大司教はコンラート1世を破門にし、コンラート1世は破門の解除のために償いを行い、エルサレムへの巡礼を行わなければならなかった。1086年、コンラート1世は旅からの帰路の途中、イタリアで死去した。
コンラート1世は1070年にシニー伯アルヌール1世とともにオルヴァル修道院を、1083年にアルトミュンスター修道院を創建した。
結婚と子女
1075年ごろにアキテーヌ公ギヨーム7世とエルメザンドの娘クレマンス(1060年 - 1142年)と結婚し、以下の子女をもうけた。
- マティルデ(1070年没) - ブライスガウ伯ゴットフリート(1075年没)と結婚
- ハインリヒ3世(1096年没) - ルクセンブルク伯
- ルドルフ(1099年没) - ヴェルダンのサン=ヴァンヌ修道院長
- コンラート
- アダルベロ(1098年没) - メッツ助祭長、ゴドフロワ・ド・ブイヨンの軍に加わり聖地に赴き、トルコ人によりアンティオキアで処刑された。
- エルメジンデ(1075年 - 1143年) - 1096年にダグスブルク伯アルベルト1世・フォン・エギスハイム(1098年没)と結婚。1101年にナミュール伯ジョフロワ1世と結婚し、後のルクセンブルク伯ハインリヒ4世を生んだ。
- ヴィルヘルム(1081年 - 1131年) - ルクセンブルク伯、マティルデ・フォン・バイヒリンゲンと結婚。
脚注
参考文献
- Gades, John A. (1951). Luxembourg in the Middle Ages. Brill
- Jackman, Donald C. (2012). The Kleeberg Fragment of the Gleiberg County. Editions Enplage