コンブリ
コンブリ (Combrit)は、フランス、ブルターニュ地域圏、フィニステール県のコミューン。コンブリ=サント=マリーヌ (Combrit-Sainte-Marine、ブルトン語:Kombrid Sant-Voran)の名が知られており、コミューンの公式サイトではコンブリ=サント=マリーヌの表記となっている。 地理コンブリのオデ川河口にはサント=マリーヌのマリーナがあり、河口の対岸はベノデである。サント=マリーヌ地区はリゾートが盛んである。 歴史町には、新石器時代とガロ=ローマ時代の遺跡が残る。 コンブリはおそらく6世紀頃に誕生したキリスト教の古い教区であった。この教区は現在のイル=テュディから切り離され、かつてはランブールの一部であった。後にポン=ラベの教区に併合された。中世のコンブリ教区は、ほぼ全体がポン=ラベの男爵領に含まれていた。 コンブリは、1592年から1599年までの間のユグノー戦争で人々が迫害を受けた教区のうちの1つである。当時のコンブリはコルヌアイユ司教区に含まれていた[1]。 コンブリのサン・テュグデュガル教会はビグダン地方にあった。1675年6月23日に教区民たちはコスケール領主を攻撃し、この日から印紙税一揆が始まった。教会はその後、1世紀たってから高層部が取り払われ、教会付属の塔がつくられた。これはルイ15世に対して抵抗した、ブルターニュ高等法院の中の反対派首領の1人、ケルサロンのおかげである。塔の建築家の名前のブルトン語発音Bigotは、ビグダン(Bigouden)地方の名の語源になったという仮説がある。 1861年、ポン=ラベからフエナン間の道路が主要道にランク付けされた。ポン=ラベ、コンブリ、フエナンの町は道路の維持管理を行うよう決められた[2]。 2008年5月、コミューンは、ブルトン語の日常使用促進を掲げるYa d'ar brezhoneg憲章の批准を可決した。 人口統計
参照元:1999年までEHESS[3]、2000年以降INSEE[4][5] 史跡
ゆかりの人物
姉妹都市脚注
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