コンスタンス・マイエール
コンスタンス・マイエール(Constance Mayer)として知られるマリー=フランソワーズ・コンスタンス・マイエール=ラ・マルティニエール(Marie-Françoise Constance Mayer-La Martinière、1775年3月9日 - 1821年5月26日)[1]は、フランスの画家である。肖像画や風俗画などを描いた。画家のピエール=ポール・プリュードンと暮らし、助手、共作者としても働いた。 略歴フランス北部のエーヌ県のショーニー(Chauny)の税関の役人の娘に生まれた[1]。パリに出て、ルーヴル美術館に開かれた若い女性のための美術学校でジョセフ=ブノワ・スヴェー(Joseph-Benoît Suvée: 1743–1807)やジャン=バティスト・グルーズ(1725-1805)から絵を学んだ。 フランス革命の恐怖政治が終わり、社会が落ち着きを取り戻し、細密画や肖像画が流行した。マイエールは女性や子供の肖像画などを描き、1795年にパリの サロンに初めて作品が受理され、その後数年間、続けて出展した。 1801年にジャック・ルイ・ダヴィッドのスタジオで働き、1802年に画家のピエール=ポール・プリュードン(Pierre-Paul Prud'hon: 1758–1823)の弟子になった[2][3]。プリュードンは、妻と離婚していて、5人の子供たちの世話をマイエールがするようになった[4]。プリュードンはナポレオンに気に入られていてジョゼフィーヌやマリー=ルイーズの肖像画などを描いた画家である。1808年にプリュードンはレジオンドヌール勲章を受勲した。 ナポレオンから与えられた住居に住み、マイエールはプリュードンの影響を受けたスタイルで作品を制作し、プリュードンとも共作したとされ、画家としての評価も得ていた。 1821年にマイエールはプリュードンと口論になり、プリュードンにマイエールと結婚する意志のないことに失望し、カミソリで自殺したと伝えられる。 1823年にプリュードンはマイエールの回顧展を開いた。その年亡くなった。 作品
参考文献
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