コナー・ジャクソン
コナー・シムズ・ジャクソン(Conor Sims Jackson, 1982年5月7日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州オースティン出身の元プロ野球選手。 父親は俳優のジョン・M・ジャクソン[1]。 経歴プロ入り前エル・カミーノ・レアル高校を卒業した2000年[2]、クリーブランド・インディアンスから31巡目(全体936位)でドラフト指名を受けたが、これを拒否。契約には至らず[3]。 カリフォルニア大学バークレー校在学時の2003年、48試合 ・ 打率.388 ・ 10本塁打 ・ 44打点 ・ 出塁率.538 ・ OPS 1.213をマーク。パシフィック・テン・カンファレンスのオールスター(一塁手)と、全米大学3rdチーム(三塁手)に選ばれる[4]。 プロ入りとダイヤモンドバックス時代2003年6月3日、アリゾナ・ダイヤモンドバックスから1巡目(全体19位)でドラフト指名を受け、6月16日に契約成立。この年からマイナーリーグ(A-級)でプレーを始め、68試合に出場して好成績を挙げ、ノースウェスト・リーグのMVPに輝いた[4]。 2004年はA+・AAトータルで127試合に出場の上、好成績を挙げる。シーズン終了後、ベースボール・アメリカ誌のマイナーリーグ・オールスター2ndチームに選ばれた他[4]、チーム内の有望株リストで2位にランクされ、ベスト・ストライクゾーン・ディシプリンにも選ばれるなど[5]、順調に成長を遂げる。 2005年は、AAAにステップアップ。93試合 ・ 打率.354 ・ 出塁率.457 ・ OPS 1.010と言うハイレベルな数字を叩き出し、7月10日にはフューチャーズ・ゲームに出場[6]。7月27日、メジャー初昇格。翌28日、シカゴ・カブス戦の7回表に代打として起用されデビューを果たす。この時はファーストフライに倒れたが、30日のカブス戦では六番打者・一塁手としてスタメン起用され、リッチ・ヒル投手からセンター前に初安打を放っている。8月6日のコロラド・ロッキーズ戦では2本塁打を打つなど、40試合に出場して経験を積んだ。シーズン終了後、ダイヤモンドバックスのマイナーリーグ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーに輝く[4]。また、前年に引き続きベースボール・アメリカ誌のマイナーリーグ・オールスター2ndチームに選ばれた他、チーム内の有望株リストで2位にランクされ、ベストヒッター・フォー・アベレージとベスト・ストライクゾーン・ディシプリンに挙げられている[7]。 2006年は、五番打者・一塁手で開幕スタメンを果たす。当時はトニー・クラークという強打の一塁手がいたが、彼は肩の痛みに悩まされ79試合の出場に留まったこともあり[8]、ポジション争いを制し、正一塁の座を獲得。8月には打率.310、9月は.341(OPS.906)と2ヵ月続けて3割をマーク。前半戦打率.272、OPS.772に対して後半戦は打率.312、OPS.850と尻上がりに調子を上げた[9]。 2007年も前年同様の成績を挙げ、安定した打撃で地区優勝に貢献。前半戦打率.266、OPS.765に対して後半戦は打率.308、OPS.926と夏場以降に調子を上げ[10]、特に9月28日のロッキーズ戦ではプレーオフ進出を決定付ける本塁打を放ち、「自分のキャリアにおいて最も価値あるイッパツ」と喜びを爆発させた[11]。ポストシーズンでは6試合に出場して17打数4安打、2打点、1得点、打率.235、出塁率.222、長打率.294。チームはカブスを3連勝で倒してナショナルリーグ・ディビジョンシリーズを勝ち上がったが、リーグチャンピオンシップシリーズではロッキーズに4連敗で敗れ去った。 2008年はオフの間にダイエットとトレーニングに励んで望み、4月14-20日の週に打率.480、3本塁打、10打点、3三塁打、OPS 1.599でプレーヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞。6月7日から7月1日まで23試合連続出塁をマーク。その7月1日からは左翼にコンバートされ、21-27日の週に打率.542、3本塁打、7打点、OPS 1.676で二度目のプレーヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞。その期間中を含む7月22日から8月2日まで11試合連続安打を放った。9月20日の時点で.293だった打率を、21-24日に4-2-3-3安打の固め打ちで一気に押し上げ、初の3割クリア。対右投手打率.295、対左.315、ホーム.305、アウェー.296、前後半戦ともに.300、得点圏.303と例年にも増して安定感があった。マルチヒットを42回記録、三塁打数と盗塁数はマイナー時代も含めてキャリアハイ。左翼守備もプラス・マイナス・システムによると高く評価され、両リーグ3位にランクされている。なお、3年間(2006-2008)通算の一塁守備はワースト5位評価である[12][13][14][15][16]。 2009年は5月に真菌症に感染して渓谷熱を患い30試合の出場に終わる。オフにはウィンターリーグに参加。 アスレチックス時代2010年7月15日にサム・デメルとのトレードでオークランド・アスレチックスに移籍。 アスレチックス時代2011年8月31日にトレードでボストン・レッドソックスに移籍。 ホワイトソックス傘下時代2012年2月6日、テキサス・レンジャースとマイナー契約を結んだが[17]、開幕前に解雇され、3月31日にシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結んだ[18]。メジャー昇格は果たせず、3Aで1年間を過ごした。 オリオールズ傘下時代2012年12月5日にボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結んだ[19]。 4月14日に、現役引退を表明した[20]。 選手としての特徴大学・マイナー時代から選球眼が良く、ボールカウントの稼ぎ方が上手い。2005年はメジャー初のシーズンで、しかも限られた試合出場にもかかわらず、選んだ四球数が喫した三振数を上回っている。打率が.200しかないのに、出塁率が.303もあるのはそのためである。これにはボブ・メルビン監督も、「常に出塁している印象」と信頼を寄せている。また、コンタクト技能にも長けており、三番打者から六番打者までスマートにこなしつつ、ギャップ(外野手と外野手の間、長打コース)を狙って快打を連発する。ただし、立派な体格に相反して一塁手としてはパワーレスで、打球に伸びはない。走塁センスも欠落しており、守備も下手。一塁以外には三塁手・左翼手としてのプレー経験があるが、いずれにせよ多くは期待できない。今後は、中距離砲のラン・プロデューサー(確実に打点を挙げる打者)としての活躍が期待されている[21][8][22][23][24][25]。 シュアな打撃を武器とするコンタクト・ヒッターで[21]、例年安定した数字を刻んでいる。2008年現在もオースティン在住[2]。 詳細情報年度別打撃成績
参考資料
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