グリゴリー・コトシーヒングリゴリー・カルポヴィチ・コトシーヒン(英語: Grigory Karpovich Kotoshikhin、ロシア語: Григорий Карпович Котошихин, tr. Grigoriy Karpovich Kotoshikhin)、1630年頃 - 1667年11月)は、ロシア・ツァーリ国の外交官、ポソルスキのプリカースのポジャーチ、作家。 生涯グリゴリー・コトシーヒンは1658年から1661年まで、スウェーデン帝国とのヴァリエサル条約(1658年)およびカディス条約(1661年)の交渉を務めたロシア代表の1人である。1664年春、コトシーヒンはヤコフ・チェルカスキーの軍に派遣され、書記官の職についたが、8月にリトアニア大公国に寝返り、シレジアに移った[1]。その後、彼はナルヴァを通過してストックホルムに向かい、スウェーデンの臣下になった。彼は正教会からルター派に改宗、イヴァン=アレクサンドル・セリツキー(Ivan-Alexander Selitsky)に改名した。1667年秋、彼は酔っているときに、住処の主人を殺害したとして処刑された。 グリゴリー・コトシーヒンは「アレクセイ・ミハイロヴィチの治世中のロシアについて」という著作を書き[2](1840年出版)、17世紀中期のロシア・ツァーリ国における貴重な史料となっている。この書物は、2003年、松木栄三(編訳)により日本語訳され、『ピョートル前夜のロシア: 亡命ロシア外交官コトシーヒンの手記』のタイトルで彩流社より出版された(ISBN:978-4882028130)。 脚注
関連文献
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