グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前162年の補充執政官)
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ラテン語: Gnaeus Domitius Ahenobarbus、- 紀元前82年 )は紀元前2世紀中期の共和政ローマの政務官。紀元前162年に補充執政官(コンスル・スッフェクトゥス)を務めた。 出自アヘノバルブスはプレプス(平民)であるドミティウス氏族の出身である。この氏族はアウグストゥス帝の時代にはパトリキ(貴族)とみなされるようになっていた[1]。五賢帝時代の歴史家スエトニウスによれば、氏族の先祖が「神のような姿をした双子の若者」に出会い、戦争で勝利したことをローマ人に知らせるよう命じた。その際に、「神の力の証として、彼らは彼の頬に触れ、彼らの髪の毛は黒から赤、銅色に変わった」としている。このため、この人物はアヘノバルバス(赤毛)と呼ばれるようになり、それが子孫のコグノーメン(第三名、家族名)となった[2]。この人物のひ孫がグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスで、紀元前192年にアヘノバルブス家として最初の執政官となった[3]。本記事のアヘノバルブスは、このグナエウスの子にあたる[4]。 経歴アヘノバルブスは紀元前180年代に造幣官を務めたと思われる[5]。紀元前172年、クィントゥス・フルウィウス・フラックス(紀元前179年執政官)の死去に伴って、アヘノバルブスは神祇官(ポンティフェクス)の一人となった[6][7]。紀元前169年末、第三次マケドニア戦争は最終段階であったが、執政官に選出されたばかりのルキウス・アエミリウス・パウッルスの推薦により、アヘノバルブスは現地の状況を調べる特別委員に選ばれた[8][9][10]。 紀元前167年、アヘノバルブスは再びバルカン半島に赴く。パウッルスと共にマケドニアに新秩序を組織するための10人委員会の一人となったのである[11]。最初にアヘノバルブスがアカイアに行き、アカイア同盟の指導者たちをローマに召集してマケドニア問題に対処したことは知られている。マケドニア王国は、4つの自治領へと解体された。それぞれが独自の軍隊を持たず、それまでの税金の半分をローマに納めることとなった。それぞれの自治領の住民は、他の自治領に財産を持つことができず、「外国人」との貿易、木材の輸出、銀や金鉱山の開発もできなかった[12][13]。 アヘノバルブスがいつプラエトルに就任したかは不明である。執政官就任年とウィッリウス法の規定から紀元前165年以前であることは確かだが、歴史学者ブロートンは、紀元前170年と推定している。紀元前169年の特別委員のリストで、執政官級の次に位置しているからだ[14]。 紀元前162年、執政官にプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムとガイウス・マルキウス・フィグルスが就任した。ところが、選挙を管理したティベリウス・センプロニウス・グラックスが、鳥占いで悪い兆候が出たと言い始めた[15]。結局二人はローマに呼び戻され、辞任することとなった[16]。補充執政官としてプブリウス・コルネリウス・レントゥルスとアヘノバルブスが選出された[10][17][18]。 子孫息子グナエウスは紀元前122年に執政官を務め、孫グナエウスは紀元前96年に、ルキウスは紀元前94年に執政官を務めた[4]。また、第5代皇帝ネロも男系の子孫に当たる[4] 脚注
参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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