クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト (ドイツ語 :Christian Friedrich Daniel Schubart 、1739年 3月24日 - 1791年 10月10日 )は、ドイツ ・オーバーゾントハイム (旧ヴュルテンベルク )出身の詩人 、音楽家 。
18世紀 後半に流行したシュトゥルム・ウント・ドラング を代表する詩人で、近代ドイツ最初の政治詩とされる『領主の墓』や『乞食兵士』を著し、『人間的な心の歴史によせて(Zur Geschichte des menschlichen Herzens )[ 注釈 1] 』は同国出身の詩人フリードリヒ・フォン・シラー の戯曲 『群盗 』にも見られるように、シラーに大きな影響を与えた[ 3] 。またオーストリア の音楽家フランツ・シューベルト が1817年 に作曲 した『鱒 』の作詞者として知られる。
アーレン市 が1956年 から主催する文学賞 「シューバルト賞 (ドイツ語版 ) 」に名を残す。
生涯
1739年3月24日、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州オーバーゾントハイムに牧師 の子として生まれる。アーレン を経てフリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク に入学し、神学 を学んだ。その後しばらくはルートヴィヒスブルク などでオルガニスト として働いて生計を立てていた。
1774年からはジャーナリスト として働き、主にハイルブロン 、マンハイム 、ミュンヘン 、アウクスブルク を旅した。特にアウクスブルクでは1774年から1778年 まで自由主義 的傾向が強かった雑誌『ドイツ年代記(Deutsche Chronik )』を刊行 し、ヨーロッパ 各地で人気を博していたが、その自由奔放な主張がヴュルテンベルク公 カール・オイゲン の怒りを買い、1777年 から約10年間投獄された。彼はホーエンアスペルク(Hohenasperg)の刑務所に収容されたが、彼が最初に入れられた旧望楼は、のちに「シューバルト塔」と呼ばれることになる。刑務所はナチス・ドイツ時代にはシンティ・ロマ(ジプシー)の人たちが集められる場所となり、彼らはそこから特別列車で東に「追放」された。この施設は現在「ホーエンアスペルク刑務所病院」として使用されている[ 5] 。
獄中でもなお『王侯の墓穴』などの詩を書き、社会に対する痛烈な批判を行い、若者に影響を与えた。1787年 5月に、彼の獄中の作品の一つ、プロイセン のフリードリヒ大王 への賛歌を契機になされたプロイセン政府の介入によって釈放され、亡くなるまで宮廷劇場の監督 を務めた。
1791年10月10日にシュトゥットガルト で亡くなる。
注釈・脚注
注釈
^ 訳によっては『人間の心情の物語』など。
脚注
^ Friedrich Schiller: Sämtliche Werke. Erster Band: Gedichte / Dramen I. Auf Grund der Originaldrucke herausgegeben von Gerhard Fricke und Herbert G. Göpfert in Verbindung mit Herbert Stubenrauch. München: Hanser, 4., durchgesehene Auflage 1965, S. 912.
^ 末永豊「ネッカー川」〔柏木貴久子 ・ 松尾誠之・ 末永豊『南ドイツの川と町』三修社 2009 (ISBN 978-4-384-04187-3 )、268-273頁〕。
参考文献
ドイツ語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ドイツ語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。