ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (第2代ミントー伯爵)
第2代ミントー伯爵ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド(英: Gilbert Elliot-Murray-Kynynmound, 2nd Earl of Minto、1782年11月16日 - 1859年7月31日)は、イギリスの政治家・外交官。バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士、枢密顧問官。父親がミントー伯爵に叙された1813年から自身が襲爵する1814年までは、「メルガンド子爵」の儀礼称号で称されていた。 経歴後に初代ミントー伯爵となるサー・ギルバート・エリオット準男爵の長男として生まれる[1]。母親のアンナ・マリア・アミアンドは、イギリス東インド会社の取締役やバーンスタプル選出庶民院議員を務めたサー・ジョージ・アミアンド準男爵の娘。イートン・カレッジを経てケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ卒業[2]。 1806年から1807年までデヴォン州のアシュバートン選挙区選出の、1812年から1814年までロックスバラシャー州選挙区選出のホイッグ党所属庶民院議員[3]。1814年に父の死去によりミントー伯爵を相続し、貴族院議員となる。1832年より1834年までプロイセン駐箚イギリス特命全権公使[4]。1835年、第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムの第2次内閣において第2代オークランド男爵ジョージ・イーデンの後任の海軍卿(First Lord of the Admiralty)[注釈 1]となり入閣。続く第3次メルバーン内閣でも引き続き海軍卿となり、1841年まで務めた。1846年から1852年まで、ジョン・ラッセル卿(後の初代ラッセル伯爵)の第1次内閣では王璽尚書として入閣した[5]。彼のホイッグ党内の影響力は、ラッセルの義父であることも関係していた。 1832年に枢密顧問官に列せられ[6]、1834年にバス勲章ナイト・グランド・クロスを授けられた[7]。 1859年7月31日に死去。長男のウィリアムがミントー伯爵を相続した。 家族旅行記作家パトリック・ブライドンの娘のメアリ・ブライドン(1853年7月21日歿)と1806年に結婚、五男五女をもうけた[1]。次男のサー・ヘンリー・エリオットは外交官となり、1876年から翌1877年にかけてイスタンブールで開催されたコンスタンティノープル会議に第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルとともにイギリス代表として出席した。三男のサー・チャールズ・エリオットは海軍に入り、最終的に海軍元帥に任じられた。四女のレディ・フランシス・エリオットは初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルと結婚した。 注釈
出典
外部リンク
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