ギヨーム4世・ド・トゥールーズ(フランス語:Guillaume IV de Toulouse, 1040年ごろ - 1094年)は、トゥールーズ伯、プロヴァンス辺境伯およびナルボンヌ公(在位:1061年 - 1094年)。トゥールーズ伯ポンスとアルモディス・ド・ラ・マルシュの息子。1067 年以前に、出自不明の女性マチルダと結婚し、ポンスと名前不明の息子の二男をもうけたが、ポンスは1079年5月15日以前に、もう一人の息子も1094 年以前に若死した。
1080年にモルタン伯ロベールの娘エマと再婚し、唯一の相続人となった嫡女フィリッパをもうけた。
生涯
ギヨーム4世には、無事に育った男子がおらず一人娘のフィリッパしかいなかった。しかし、トゥールーズには女性の相続の前例がなく、継承に関し問題が起こった。1088年、ギヨーム4世が聖地に向け旅立つとき、ギヨーム4世は弟レーモン・ド・サン=ジルを代理統治者とした(後にレーモンは継承を主張した)。5年後ギヨーム4世は死去し、弟レーモンが権力を握った[注釈 1]。しかしフィリッパはアキテーヌ公ギヨーム9世と結婚した後、トゥールーズの領有権を主張し、レーモンとその子供たちからトゥールーズを取り戻すため何年にもわたり争うこととなった。
注釈
- ^ ギヨーム4世はトゥールーズを巡って内乱が起こるのを防ぐため、フィリッパをアラゴン王サンチョ1世と結婚させたといわれる(e.g. Meade, Marion (1978). Eleanor of Aquitaine. Frederick Muller Ltd)。しかし、これを詳細に研究した最近の2人の歴史家は、この主張を却下した。Ruth E Harveyは"The wives of the first troubadour Duke William IX of Aquitaine", Journal of Medieval History, vol 19, 1993, p 315 において、以前の説とは違いギヨーム9世がフィリッパ・ド・トゥールーズの唯一の夫であると結論付けた。また、Szabolcs de Vajayは"Ramire II le Moine, roi d'Aragon et Agnes de Poitou dans l'histoire et la légende", Mélanges offerts à René Crozet, 2 vol, Poitiers, 1966, vol 2, p 727-750 において、現代の歴史では広く見られるが、同時代ではない人物が記録したアラゴン王との結婚は想像上のものである、と述べ、J de Salarrullana de Dios, Documentos contactientes al reinado de Sancho Ramirez, Saragossa, 1907, vol I, nr 51, p 204-207 を引用して、この時サンチョ1世の妃フェリシー・ド・ルシーがまだ明らかにサンチョ1世と結婚していたことを示している。これにより、サンチョ1世の死の前に、フィリッパと数年間結婚していたということは完全に支持できなくなった。
脚注
参考文献
- Cheyette, Fredric L. (2004). Ermengard of Narbonne and the World of the Troubadours. Cornell University Press
- Hill, John Hugh; Hill, Laurita Lyttleton (1962). Raymond IV, Count of Toulouse. Syracuse University Press