ガイウス・リキニウス・ゲタ
ガイウス・リキニウス・ゲタ(ラテン語: Gaius Licinius Geta、生没年不明)は、紀元前2世紀後期の共和政ローマの政治家。紀元前116年に執政官(コンスル)を、紀元前108年にはケンソル(監察官)を務めた。 出自ゲタはプレブス(平民)であるリキニウス氏族の出身である。祖先のガイウス・リキニウスとプブリウス・リキニウスは紀元前493年に最初の護民官となっており、紀元前367年にはガイウス・リキニウス・ストロがリキニウス・セクスティウス法を制定してプレブスにも執政官への道を開き、紀元前364年には自身が氏族最初の執政官となった。しかし、その後1世紀半、リキニウス氏族の活躍は伝えられおらず、紀元前236年になってガイウス・リキニウス・ウァルスが執政官に就任している[1]。その後氏族は多くの執政官を輩出することになるが、ゲタ家出身の執政官は彼一人である。 経歴ゲタの早期の経歴は知られていない。執政官就任年とウィッリウス法の規定から、遅くとも紀元前119年にはプラエトル(法務官)務めたはずである[2]。紀元前116年にはクィントゥス・ファビウス・マクシムス・エブルヌスと共に執政官に就任した[3]。 執政官任期満了後の紀元前115年、ケンソル(監察官)グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスとルキウス・カエキリウス・メテッルス(ディアデマトゥスまたはダルマティクス)からのノタ・ケンソリアによって、ゲタは他の31名と共に、元老院を除名された[4]。理由は伝わっていないが、キケロは『クルエンティウス弁護』の中で、彼の除名の理由として、「善良な道徳心に反する不道徳な行為」を挙げている[5]。 次のケンスス(紀元前109年)により、ゲタは元老院議員に復帰した[6]。監察官の一人マルクス・リウィウス・ドルススが任期途中で死亡したこともあって、再度監察官が選ばれることになり、ゲタは紀元前108年に監察官に就任した。同僚は執政官としても同僚であったエブルヌスであった。ブルヌスは自らの息子を不貞行為で処刑、マルクス・アエミリウス・スカウルスを第一人者に再指名した[7]。 脚注参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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