カザマンスカザマンス地方(Casamance)は、西アフリカのセネガル共和国南西部にあり、ガンビアとギニアビサウの間に位置する。セネガルの行政区分でジガンショール州(ジガンショール県、ウスイ県、ビニョナ県)、コルダ州(コルダ県、セディウ県、ヴェリンガラ県)の2州6県にまたがる地域。面積は約21,011Km2、中心都市はジガンショール。 民族・言語・宗教カザマンスの住民はジョラ族が多い。ジョラ族の言語は、方言の多いことで知られるジョラ諸語 (jóola) で、方言としてジョラ=フォニィ語、Boulouf、Kasa等がある。宗教はキリスト教徒が多い。 歴史伝説カザマンスの老人がよく語る伝説的な人物としては、ジナバ・バッジ (Djinabo Badgi) やアリン・シトゥ・ジャタ (Alyn Sytoe JataもしくはAline Sitow Diatta) がいる。また、カザマンスに到達した最初のヨーロッパ人は、ジョラ族の建築技術の高さに驚いた。彼らはアフリカで唯一、防水で2階建てのカーズ[要曖昧さ回避]を作る技術を持っていたからだ。 フランス統治時代19世紀から20世紀初頭のフランス統治時代、他のセネガルの地域と同様にフランスは族長など地域の権力者を利用してカザマンス地方も治めようとした。しかしカザマンスの住民ジョラ族は階級制度を持たない上、カザマンス社会には地域の権力者も存在しなかった。そこでフランスはマンディンカ族の族長をカザマンスに移住させ、カザマンスを治めようと試みた。しかしジョラ族はこれに反発し、フランスに対する激しい抵抗運動が1930年代まで続いた。1943年には伝統的女性司祭en:Aline Sitoe Diatta (仏: Aline Sitoé Diatta)に率いられた抵抗運動が起きた。この運動はフランス軍によって弾圧され、この女性司祭は現在のマリ共和国のトンブクトゥで投獄され、その後亡くなった。彼女はカザマンスの人々の誇りとなり、「カザマンスのジャンヌ・ダルク」とも呼ばれた。1950年から1970年にかけて、中国人がカザマンスで稲作の技術改良を行った。[要出典] セネガル独立1960年にセネガルがフランスから独立した。しかしセネガルのウォロフ族の居住地域は都市化による発展が進み、それに従い、都市の商業や行政上の使用言語などによるウォロフ化が進み、カザマンスのジョラ族は政治や経済的に辺境に追いやられた。そのためカザマンスの住民は反発すると同時に、他の地域と異なる自分達の伝統文化を守る事を宣言し、中央政府の北部(ウォロフ族)に対して抵抗運動を始めた。 カザマンス紛争→詳細は「カザマンス紛争」を参照
1982年12月26日、ジガンショールで分離独立を求めるカザマンス民主勢力運動(MFDC)が政府軍との間で武装衝突を起こした。以来、現在に至るまで、政府側と武装衝突が続いている。隣国ギニアビサウ(MFDCの本拠地がギニアビサウの北部、セネガルとの国境近くにある。)がMFDCを支持していたことから、セネガル政府とギニアビサウとの関係も悪化していた。ギニアビサウとの国境付近で海底油田が発見され、セネガルとギニアビサウ両国は海上国境の策定をめぐって国際司法裁判所で争っていたが、判決はセネガルに有利なものとなったという背景などがある。 年表
経済行政区分カザマンス地方は、ジガンショール州、セディウ州、コルダ州の3州からなる。 ジョラ号→詳細は「ジョラ号」を参照
2002年9月26日、ジガンショールからダカールへ出航したセネガル政府所有のフェリー・ジョラ号がガンビア沖で沈没した。この惨事で少なくとも1,863人が死亡し、アフリカ史上最悪の海難事故となった。 外部リンク
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