オドルヘユ・セクイエスク
オドルヘユ・セクイエスク(ルーマニア語: Odorheiu Secuiesc)は、ルーマニアのトランシルヴァニアにある都市。ハルギタ県第二の都である。ハンガリー名はセーケイウドヴァルヘイ (Székelyudvarhely)、ドイツ名はオドルヘレン (Odorhellen) だが、省略形としてルーマニア名ではオドルヘイ (Odorhei)、ハンガリー名ではウドヴァルヘイ (Udvarhely) が広く通用する。なお、ハンガリー名の「ウドヴァルヘイ」とは「裁判所の土地」という意味である。 人口動静総人口3万6948人のうち、95.7%にあたる3万5359人がハンガリー人で、この割合は国内の都市のなかで二番目に高い[1]。残りは2.91%がルーマニア人で、1.16%がロマである。 国勢調査ごとの総人口の推移: 人口の約半数にあたる50.05%がローマ・カトリックを信仰している。残り半数はハンガリー改革派教会 (30.14%)、トランシルヴァニア・ユニテリアン教会 (14.71%)、ルーマニア正教会 (2.54%) などに分かれる。 歴史町はハンガリー王国時代からウドヴェルヘリ県の県庁所在地として、セーケイ地方の中心であった。1334年の教皇文書に「Oduorhelのsacerdos」というハンガリー人が登場するのが地名の初出である[2]。1613年に時のトランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルが町の領有権を主張したが、時を同じくしてセーケイウドヴァルヘイ (Székelyudvarhely) に改称された。 1357年にセーケリ地方で初めて議会が置かれ、1451年には砦も築かれた。砦はヤーノシュ・ジグモンドが1565年に増築したが、1599年にワラキアのミハイ勇敢公がハプスブルク家と組んで破壊した。その後再建されたが、それもまた破壊された。城址はいま「セーケイの襲撃を受けた要塞」として知られている。 1920年のトリアノン条約でルーマニア領となり、戦間期はオドルヘイ県に属した。1940年の第二次ウィーン裁定でトランシルヴァニア北部の見做されハンガリー領となったが、ソ連進駐後の1944年にルーマニアの行政区画に組み入れられ、1947年に正式に復帰した。1952年から1960年まではハンガリー人自治区、1960年から1968年まではムレシュ=ハンガリー人自治区に区分された。1968年の自治区廃止にともない、現在までハルギタ県となっている[3]。 2005年8月には大洪水が一帯を襲った。 2004年5月22日には市内の公園にセーケリ地方の歴史上の偉人像がお目見えしたが、そのなかに第二次世界大戦後の軍事裁判にかけられたワシュ・アルベルトの像があったため物議をかもした。 出身有名人
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脚注
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