エル・ジェム
エル・ジェム(ラテン語:Thysdrus)はチュニジア、マーディア県の人口18,302人(2004年の国勢調査)の町である。 ここにはアフリカで最も印象的なローマ遺跡が眠る。 歴史この都市はチュニジアのほとんどすべてのローマ人居留地と同様にカルタゴ人の居留地の上に構築された。 ローマ時代のThysdrusは、特に2世紀に、今日ほど乾燥していない気候の下で、輸出のために製造するオリーブオイルの中心として繁栄した。 この街は、現在もローマカトリックの肩書きである大司教の所在地であった。 3世紀はじめの円形闘技場が構築された頃、Thysdrusはカルタゴに続くローマ帝国の北アフリカの第2の都市の座をHadrumetum(現代のスース)と競っていた。 しかし、238年に始まり、ゴルディアヌス1世のカルタゴの近くの彼の別荘での自殺に続く、不成功に終わった反乱のときに、皇帝マクシミヌス・トラクスに忠実なローマの軍隊が都市を破壊した。 この破壊は回復されなかった。 3世紀の破壊がどの程度のものであったかは知られていない。 恐らく、オクシリンコスと同様の破壊が行われたものと思われる。 名所・旧跡円形闘技場
エル・ジェムは、間違ってコロセウムと呼ばれることのある観客席35,000人の円形闘技場(アンフィテアトルム)で有名である。この闘技場より大きいものはローマのコロセウム(約45,000人)およびカプアの荒廃した闘技場だけである。エル・ジェムの円形闘技場は238年頃Thysdrusで皇帝と歓呼して迎えられた総督ゴルディアヌス1世の下のローマ人によって構築された。闘技場は、恐らく剣闘士や「ベン・ハー」の中で描かれたような戦車レースのために使用された。円形闘技場は未完成であった可能性もある。 17世紀まで、闘技場はほぼ原型を保っていた。17世紀から、闘技場の石材は、エル・ジェムの近くの村を構築するためやケルアンの大モスクのために使用され、オスマン帝国との戦闘において、トルコ人は、円形闘技場から敵を追い出すために大砲を使用した。 その他流砂が、Thysdrusの市場都市とそれを囲む洗練された別荘を保存している。 考古学者の注意は発掘を必要としない闘技場に集中している。 モザイクの床がいくつか見つかり公表された。しかし、発掘はほとんど試みられていない。 Thysdrusはパピルスの宝庫である。 エル・ジェムの気候は乾燥しているので、パピルスは大変よく保存されている。 関連項目外部リンク
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