エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1285-1352)
エリーザベト・フォン・エスターライヒ(ドイツ語:Elisabeth von Österreich, 1285年ごろ - 1352年5月19日)またはイザベル(Isabelle)は、ロレーヌ公妃および、息子が若年の間ロレーヌ公領の摂政(1329年 - 1331年)をつとめた。 生涯エリーザベトはローマ王アルブレヒト1世とエリーザベト・フォン・ケルンテンの間の娘である[1]。兄弟にボヘミア王ルドルフ1世、フリードリヒ3世、レオポルト1世、アルブレヒト2世およびオットーが、姉妹にハンガリー王妃アグネスおよびブランデンブルク辺境伯妃アンナがいる。 父アルブレヒト1世はフランスとの関係を強めるため、エリーザベトをフランス王フィリップ4世の息子の一人と婚約させた。1300年5月25日、長兄ルドルフ1世がフィリップ4世の異母妹ブランシュ・ド・フランスと結婚した。この結婚の後、エリーザベトとフランス王子との婚約は解消された。 その後エリーザベトはロレーヌ公フェリー4世と結婚することとなった[1]。婚姻契約書に1306年8月6日署名され、1307年に結婚した。この結婚によりエリーザベトはロレーヌ公妃となり、エリーザベトの弟フリードリヒ3世はフェリー4世からローマ王となるための支援を受けることができた。フェリー4世はミュールドルフの戦いにおいてフリードリヒ3世に味方して戦ったが捕縛され、フランス王によって解放された。エリーザベトはロレーヌにおいてはイザベルと呼ばれた。 夫フェリー4世は1328年に死去し、息子ラウルが若年であったため、エリーザベトが1329年から1331年までロレーヌの摂政をつとめた。ラウールは10歳でエレオノール・ド・バルと結婚し、舅バル伯エドゥアール1世がエリーザベトに代わって摂政となった。 エリーザベトは1352年にロレーヌ公領の首都ナンシーで死去し、チロル伯領内にあったケーニヒスフェルデン修道院の墓地に埋葬された。 子女エリーザベトはフェリー4世との間に6人の子女をもうけた。
ラウルとマルグリットのみが成人し、他は早世した。 脚注
参考文献
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