エドワード・コルストン (英語 : Edward Colston , 1636年 11月2日 - 1721年 10月11日 [ 1] )はイギリス の商人 、トーリー党 の国会議員、篤志家 、奴隷取引家 である。1340年代からブリストルに住む商人の家系に生まれ、長じてから自身も商人となり、当初はスペイン、ポルトガル、その他のヨーロッパの港を中心に、ワイン、果物、布などの貿易を行った。1680年には、イギリスのアフリカ奴隷貿易 を独占 していた王立アフリカ会社 に加入したことで、奴隷貿易に大きく関与するようになった。彼は1689年に会社の最高職である副総督に就任した。彼の資産のうちどの程度が奴隷貿易に由来していたのか正確な所は不明であるが、彼が奴隷貿易に関与して財を成したことは事実である[ 1] [ 2] 。
コルストンは奴隷貿易で得た資産を元手に、ブリストル 、ロンドン 、その他の場所で学校 、病院 、救貧院 、教会 を支援し、寄付した。彼の名前は、ブリストルのいくつかのランドマーク、通り、3つの学校、そしてコルストン・バンズ (英語版 ) によって記念されている。1895年 には彼の像 が建立されたが、20世紀後半に彼が大西洋奴隷貿易 に関与していた事が認識される様になるとランドマークの名称変更を求める抗議や嘆願が続き、2020年 6月、彼の像が倒されブリストル湾に投棄された事で最高潮に達した。彼が設立した慈善財団に触発されて設立された財団は現在でも存続している[ 3] 。
生い立ち
コルストンは1636年11月2日にブリストルのチャーチ・ストリートで生まれた。彼は少なくとも11人、おそらく15人の子供の長男である。彼の両親は、1643年にハイシェリフ・オブ・ブリストル (英語版 ) を務めた豪商ウィリアム・コルストン(1608年生、1681年没)と、エドワード・バッテンの娘である妻サラ(1608年生、1701年没)であった。エドワード・バッテンはイングランド内戦 の時期までブリストルで育ち、その頃にはブリストルのすぐ北にあるウィンターボーン (英語版 ) にある父親の所有地にしばらく住んでいたと思われる。一家はその後ロンドン に移り、エドワードはクライスツ・ホスピタル (英語版 ) の学校の生徒だったという説もある[ 4] 。
キャリア
絹物商のリヴァリ・カンパニー (Worshipful Company of Mercers)で8年ほど働き、1672年 にロンドンから商品を売り出すようになった。スペイン 、ポルトガル 、イタリア 、アフリカ などと布 、油 、ワイン 、シェリー酒 、フルーツ などを交易した。1680年 には西アフリカ で金 、銀 、象牙 、奴隷を取引する権限を有する王立アフリカ会社 のメンバーの一人となる.[ 4] 。
会社役員会で急速に昇進し、1689年から1690年には会社の実質的な経営者である副総督(Deputy Governor)に就任。1692年 に王立アフリカ会社を退社した[ 5] 。この王立アフリカ会社とは国王チャールズ2世 と王弟ヨーク公 ジェームズ(後のジェームズ2世 )が創立した企業でジョン・ロック やサミュエル・ピープス などの投資家を含んでいた[ 6] [ 7] 。
コルストンは王立アフリカ会社に参加している間(1680年から1692年)、西アフリカで奴隷貿易を行い、8万4000人(1万2000人の子供を含む)のアフリカ黒人を輸送し、うち1万9000人はカリブ海の船の中で死に、残りはアメリカ大陸へ送られていった[ 8] 。船の状態のために船員の死亡率も高く、しばしば奴隷より死亡率が高いこともあった[ 9] 。アメリカ大陸に到着した黒人奴隷たちはプランテーションに売却された。特にカリブ海の砂糖プランテーション (英語版 ) は西アフリカと気候が似ていたので同国人の労働力よりも条件に適しており、また英国の年季奉公 人や賃金労働者よりもはるかに安価に維持できた[ 10] 。
両親はブリストルで暮らしており、ブリストル地方行政府 (英語版 ) に多額の金を貸した。ブリストル市の貿易商人協会 (英語版 ) の一員となり、また自治都市市民 (英語版 ) にもなった。1684年 にはブリストルのセント・ピーターズ・チャーチ・ヤードにある精糖工場のパートナーとなり、セントクリストファー島 で黒人奴隷が生産した砂糖を出荷した。ただ彼はブリストルに居住しておらず、1708年に引退するまでサリー州 モートレイク (英語版 ) にあった[ 4] 。
オックスフォード英国人名事典 によれば、コルストンは奴隷の売買で多くの財産を築いたと考えられている[ 4] 。 モーガンによれば、奴隷貿易と奴隷が生産する砂糖への関与から得た彼の富の割合は不明であり、さらなる証拠が出ない限り推測の域を出ない。この収入だけでなく、彼は上記の他の商品の取引、貸金業からの利子 、そして最も可能性の高い、その他の慎重な金融取引からも収入を得ていた[ 11] 。
慈善活動と政治
コルストンズ・アルムスハウス
コルストンはブリストル、ロンドン、その他の場所で学校、慈善施設、病院、教会を支援し、寄付を行った。コルストンは、彼の宗教的・政治的見解を共有していない人々への利益にならないよう、自身の慈善事業を構成した[ 12] [ 8] [ 14] 。彼の慈善財団の多くは今日まで存続している[ 3] 。
ブリストルでは、キング・ストリートの救貧院 とセント・マイケルズ・ヒルのコルストンズ・アルムスハウス (英語版 ) を設立し、クイーン・エリザベス・ホスピタル (英語版 ) の学校に寄付し、1710年 、寄宿学校 コルストンズ・ホスピタル (英語版 ) の設立を支援した。彼は学校の維持のためにマーチャント・ヴェンチュラー協会が管理する基金を残した。彼はテンプル・スクール(そのうちの1校はセント・メアリー・レッドクリフ・アンド・テンプル・スクール (英語版 ) となった)やブリストルの他の地域の学校、いくつかの教会や大聖堂に資金を提供した[ 4] 。トーリー党 の熱心な支持者であり、1710年イギリス総選挙 ではブリストル選挙区 (英語版 ) におけるトーリー党有力候補として挙げられた[ 15] 。コルストンは老齢(1710年時点で74歳だった)を理由に立候補を辞退したが、熱心な市民がコルストンの同意なしに彼を立候補させ、当選を果たした[ 15] 。しかし、老齢だったため議会ではほとんど活躍できず、ブリストルを代表して請願を庶民院 に提出することが主な活動だった[ 15] 。1713年イギリス総選挙 では出馬せず、議員を退任した[ 15] 。
1808年 にデビッド・ヒューソン (英語版 ) は、コルストンを「ブリストル市の偉大な恩人であり、彼が生きている間に慈善団体に7万ポンド以上を費やした」と評している[ 16] 。
275年にわたってコルストンを記念した慈善団体を運営していたコルストン協会は、2020年 に解散を決定した[ 17] 。
死去
コルストンが1721年に没したモートレイク (英語版 ) のクロムウェル・ハウス
ブリストル、オール・セインツ教会のコルストンの記念碑の彫刻(ブリストルの過去と現在より) 1882年
84歳になったコルストンは1721年10月11日、モートレイクの自宅(旧)クロムウェル・ハウス(1857年に取り壊し)で没した。彼の遺言では、派手でないシンプルな葬儀を望んでいたが、この指示は無視された[ 18] 。彼の遺体はブリストルに運ばれ、オール・セインツ教会 (英語版 ) に葬られた。彼の記念碑はジェームズ・ギブス (英語版 ) がデザインし、ジョン・マイケル・リスブラック (英語版 ) が彫った彫像が飾られている[ 19] 。生涯未婚であり、1720年5月に遺言状を書いたときは同名の甥エドワード の一人娘サラ(Sarah )を相続人に指定したが、サラが1721年1月に死去したため、代わりに姉妹メアリーの娘メアリー(トマス・エドワーズ (英語版 ) の妻)に遺産を譲った[ 15] [ 20] 。
現代における再評価
少なくとも1990年代以降、奴隷貿易におけるコルストンの役割の認識が高まるにつれ、ブリストルにおけるコルストンの顕彰に対する批判が高まっている[ 21] 。
銅像
ブリストルのザ・センターにあったエドワード・コルストン像(1895年建立、2020年破壊)
コルストンの死から174年後、ジョン・キャシディ 制作の像は、コルストンの慈善活動を記念して1895年 にブリストル中心部に建てられた[ 22] 。
エドワード・コルストンを記念した銅像建立のアイデアは、地元実業家であり錨協会 (英語版 ) の会長でもあるジェームズ・アロースミス (英語版 ) の物だった。
遅くとも1990年代以降[ 23] 、この像の撤去を求める運動が行われ、コルストンが奴隷貿易で利益を得ていた事を考慮すると不名誉な記念碑であると表現されてきた[ 24] 。 請願書が流通し、2018年 にはブリストル西 (英語版 ) 選挙区の労働党 議員であるタンガム・デボネール (英語版 ) がブリストル市議会 (英語版 ) に書簡を提出し、像の撤去を求めた[ 24] 。 2018年10月18日、イギリスの反奴隷の日 (英語版 ) にちなみ、コルストンに代表される歴史上の奴隷取引と現代の奴隷を対比した非公式のアートインスタレーション が像を取り囲んだ。それはフルーツピッカー (英語版 ) やネイルバーワーカーなどの現代の奴隷が典型的に行っている仕事のリストのボーダーで囲まれた奴隷船 のように配置された約100人の仰臥位の人物を描いたもので、数ヶ月間残った[ 25] 。 別のインスタレーションでは、ボールと鎖が像に取り付けられていた[ 24] [ 26] 。
2018年には、地域社会の関与を得てコルストンの歴史をより多くの人々に知らせるために、像のために公式の銘板 が手配された[ 27] 。 保守党 のリチャード・エディ議員と貿易商人協会 (英語版 ) (コルストンが所属していた組織で2016年 までコルストンの遺髪と爪を本部で展示していた)[ 28] はこの文言に異議を唱え、とりわけ、トーリー党議員としてのコルストンの役割と彼の慈善活動の選択的な性質についての言及を削除し、彼が人身売買した数千人の子供たちの正確な数と年齢について異議を唱える事で成功をおさめた[ 27] 。 この銘板は貿易商人協会の大きな関与を得て書き直されたが、その文言はブリストル市長 (英語版 ) のマーヴィン・リース (英語版 ) によって拒否され、同協会がプロセスに多くの発言権を持ちすぎていると見た同市長は、銘板の作成に地域社会のより多くの部分が関与するよう指示した[ 27] 。像が倒された後、貿易商人協会は銘板の書き換えに関与する事は「不適切だった」と認めた[ 28] 。
2020年 6月7日 、イギリスにおける2020年反人種差別デモ (英語版 ) の抗議活動中にデモ隊によってコルストン像が倒され、ブリストル湾に投げ込まれた[ 29] 。 歴史家でありテレビ司会者でもある、マンチェスター大学 教授 のデイビッド・オルソガ (英語版 ) は、もっと早く取り壊されるべきだったとコメントしている。「像は、『この人は偉大なことをした偉大な人だった』と言うためのものだ。それは真実ではない。彼(コルストン)は奴隷商人であり殺人者だった。」[ 30] [ 31] 内務大臣 のプリティ・パテル は、像の破壊を「全く不名誉な事」と呼び、「人々が実際に抗議している大義名分から目を逸らす無秩序、公共の混乱の行為を物語っている」と述べた[ 32] 。
像が撤去された後、ポール・スティーブンソン (英語版 ) OBE の像を建立しようとする請願が始まった[ 33] 。ブリストルの元青年労働者は、1963年 のブリストル・バス・ボイコット に尽力した黒人である。この運動はアメリカのモンゴメリー・バス・ボイコット事件 に触発された物で、ブリストルのバス会社での違法な有色人種雇用禁止に終止符を打った[ 34] 。
その他の顕彰
コルストンの名は、コルストンズ・アルムスハウス、コルストン・タワー (英語版 ) 、コルストン・ホール(2020年まで) (英語版 ) 、コルストンアベニュー(Colston Avenue)、コルストン・ストリート、バンズ のコルストン・バンズ (英語版 ) 、コルストンズ・ガールズスクール (英語版 ) 、コルストンズ・スクール(Colston's School)、コルストンズ・プライマリースクール(2018年 まで)、テンプル・コルストン・スクール(現、セント・メアリー・レッドクリフ・アンド・テンプル・スクールの一部)などのランドマークで街に浸透している。また、特に一部の学校や慈善団体、貿易商人協会では、1639年に貿易商人協会に王室の公認が与えられたことを祝う「コルストンの日」(11月13日)に、セント・スティーブンズ教会 (英語版 ) で行われる礼拝で、彼のことが偲ばれている。地域のバンズ であるコルストン・バンズは彼にちなんで名付けられている[ 4] [ 35] 。 1843-46年に建設されたブリストル・ギルドホール (英語版 ) の外観には彼の像がある[ 36] 。 セント・メアリー・レッドクリフの北側袖廊には、彼を偲ぶためにクレイトン・アンド・ベル (英語版 ) によって1870年 に作られた善きサマリア人 を題材としたステンドグラス の窓がある[ 37] 。 また、ブリストル大聖堂 (英語版 ) の窓はコルストンの思い出に捧げられていたが、2020年6月、ブリストル大司教 (英語版 ) は聖公会ブリストル教区 (英語版 ) が窓からコルストンへの言及を削除する事を発表した[ 38] [ 39] [ 40] [ 41] 。
2017年 4月、コルストン・ホールを運営する慈善団体であるブリストル・ミュージック・トラスト[ 42] は、2020年 に改装を終えて再開場する際、コルストンの名称を除く事を発表した。名前の変更を求める抗議や嘆願があり、一部の聴衆やアーティストはコルストンの名前を理由に会場をボイコット していた[ 43] 。 この決定を受けて、コルストンの名前を維持するよう求める嘆願は1万人近くの署名に達したが、慈善団体は名称変更が行われる事を確認した[ 44] 。ホールは3年間の協議を経て、2020年9月にブリストル・ビーコン と改称された[ 45] 。
2017年11月、何十年にもわたる議論の末、貿易商人商会が資金提供を行っているコルストン・ガールズスクールは、コルストンの名前を外す事は学校にとって「何の利益にもならない」という理由で、コルストンの名を外さない事を発表した[ 46] 。 2018年 夏、生徒や保護者との協議の結果、コルストン小学校はコタム・ガーデンズ・プライマリースクールと改称し、ブリストルの組織としては初めて改称の動きを示した[ 47] 。2019年 2月、セント・メアリー・レッドクリフ・アンド・テンプル・スクールがコルストンにちなんだスクールハウス (英語版 ) の名称を、アメリカの数学者キャサリン・ジョンソン にちなんだ物に改称すると発表した[ 48] 。
脚注
^ a b “Colston, Edward II ”. The History of Parliament . Cambridge University Press (April 2006). 11 December 2017 閲覧。
^ Dresser, Madge (2000). “Squares of distinction, webs of interest: Gentility, urban development and the slave trade in Bristol c.1673–1820” . Slavery & Abolition a Journal of Slave and Post-Slave Studies (Routledge) 21 (3): 22. doi :10.1080/01440390008575319 . ISSN 1743-9523 . オリジナル の10 July 2011時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110710170556/http://ejscontent.ebsco.com/ContentServer.aspx?target=http:%2F%2Fwww.informaworld.com%2Fsmpp%2Fftinterface%3Fcontent=a794052444&format=pdf&magic=ebscohostejs . ( 要購読契約)
^ a b “Edward Colston, the Dolphin Society and 268 years of letter-writing…History / Background” (英語). The Dolphin Society . (2015年5月16日). https://www.dolphin-society.org.uk/history 2018年10月19日 閲覧。
^ a b c d e f Morgan, Kenneth (September 2004). “Colston, Edward ”. Oxford Dictionary of National Biography . Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/5996 . 14 August 2010 閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 )
^ “COLSTON, Edward II (1636–1721), of Mortlake, Surr. | History of Parliament Online ”. www.historyofparliamentonline.org . 16 November 2016 閲覧。
^ “Britain's involvement with New World slavery and the transatlantic slave trade ” (英語). The British Library . 2018年10月18日 閲覧。
^ Matthew., Parker (2011). The sugar barons: family, corruption, empire, and war in the West Indies . New York: Walker & Co. pp. 126. ISBN 9780802717443 . OCLC 682894539
^ a b “Row breaks out as Merchant Venturer accused of 'sanitising' Edward Colston's involvement in slave trade ”. Bristol Live . Reach plc (2018年8月23日). 2020年6月7日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年6月9日 閲覧。 “ドレッサー博士は第3の提案に同意しないと述べ、それは奴隷貿易を「無害化」する事になると主張した。”
^ Curtin, Philip D. (1969). The Atlantic slave trade: a census . Madison: University of Wisconsin Press. pp. 282–286 . ISBN 0299054004 . OCLC 46413 . https://archive.org/details/atlanticslavetra0000curt/page/282
^ “Slavery in the Caribbean - International Slavery Museum, Liverpool museums ” (英語). www.liverpoolmuseums.org.uk . 2018年11月19日 閲覧。
^ Morgan, Kenneth (1999). Edward Colston and Bristol . Bristol: Bristol Branch of the Historical Association. pp. 3. オリジナル の8 June 2020時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200608093149/http://www.bris.ac.uk/Depts/History/bristolrecordsociety/publications/bha096.pdf . "コルストンが新世界での奴隷の売買からどの程度お金を受け取っていたかは不明である。彼は間違いなく王立アフリカ会社の委員会での仕事のために報酬を得ていたが、このお金が彼の財産の基礎になっていたかどうかは推測の域を出ない。彼の富の大部分は、上述のヨーロッパとの通常の商品取引から得ていたと考えられ、王立アフリカ会社と関わる前の数年間はそれが成功していた。コルストンは父親からささやかな遺産を相続していたが、それは彼自身の富を説明するには不十分であった。彼は慎重な金融取引と貯蓄の蓄積から利益を得ていたようであり、貸金業を通して収入を得ていたのは確かである。しかし、彼は個人的な書類を残していないので、彼の富のうち、さまざまな事業や金融事業から得られた割合を大まかに見積もることは不可能である。"
^ “The wording of second plaque proposed for Edward Colston statue linking him to 20,000 deaths ”. Bristol Live . Reach plc (2018年7月22日). 2019年3月30日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年6月8日 閲覧。 “彼の宗教的・政治的信条に賛同しないブリストル市民は、彼の慈善事業の恩恵を受ける事を許されなかった。”
^ “Edward Colston, the Dolphin Society and 268 years of letter-writing...History / Background” . The Dolphin Society . (16 May 2015). https://www.dolphin-society.org.uk/history 19 October 2018 閲覧。
^ a b c d e Hanham, Andrew A. (2002). "COLSTON, Edward II (1636-1721), of Mortlake, Surr." . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年6月12日閲覧 。
^ Hughson, David (1808). “Circuit of London” . London; Being An Accurate History And Description of the British Metropolis And Its Neighbourhood, To Thirty Miles Extent, From An Actual Perambulation . V . Holborn Hill, London: J Stratford. p. 386. https://books.google.com/books?id=_g8wAAAAYAAJ&pg=PA386
^ Cork, Tristan (13 September 2020). “Bristol's original Colston Society to disband after 275 years” . Bristol Post . https://www.bristolpost.co.uk/news/bristol-news/exclusive-bristols-original-colston-society-4512321 14 September 2020 閲覧。
^ Edward Colston Will, National archives Wills Online
^ Historic England . "Church of All Saints (1282313)" . National Heritage List for England (英語). 2003年3月16日閲覧 。
^ Hanham, Andrew A. (2002). "COLSTON, Edward I (aft.1672-1719), of Bristol" . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年6月12日閲覧 。
^ Wilkins, H. J. (1920). Edward Colston (1636–1721 A.D.), a chronological account of his life and work . Bristol: J. W. Arrowsmith
^ “Edward Colston ”. PMSA National Recording Project . 9 January 2010時点のオリジナル よりアーカイブ。9 May 2007 閲覧。
^ Hochschild, Adam (2006). Bury the Chains . New York City: Mariner Books. p. 15
^ a b c Grubb, Sophie (5 June 2020). “'It's a disgrace' - Thousands call for removal of controversial Bristol statue”. Bristol Live
^ “100 human figures placed in front of Colston statue in city centre ”. Bristol Live . Reach plc (18 October 2018). 30 March 2019時点のオリジナル よりアーカイブ。8 June 2020 閲覧。 “今日、ブリストルの奴隷売買の歴史と現代の奴隷制度を結びつけるため、非公式のゲリラアート展示が市の中心部の銅像の前に現れた。”
^ “Ball and chain attached to Edward Colston’s statue in Bristol city centre ”. BristolLive.com . 8 June 2020 閲覧。
^ a b c Cork, Tristan (25 March 2019). “Second Colston statue plaque not axed and will still happen but mayor steps in to order a re-write”. Bristol Live
^ a b “Merchant Venturers say ‘It is right for Bristol’ that Colston’s statue was removed ”. Bristol24/7 . Bristol24/7 CIC (2020年6月12日). 2020年6月29日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年7月2日 閲覧。 “2018年のコルストン像のプレートの書き換えに関与することは貿易商人協会にとって不適切であり、私たちはこの1週間に寄せられた建設的なコメントに耳を傾けてきた。”
^ Diver, Tony (7 June 2020). “Statue of slave trader Edward Colston pulled down and thrown into harbour by Bristol protesters” . The Telegraph . https://www.telegraph.co.uk/news/2020/06/07/edward-colston-statue-pulled-bristol-black-lives-matter-protesters/ 7 June 2020 閲覧。
^ “George Floyd death: Protesters tear down slave trader statue ”. BBC News (7 June 2020). 7 June 2020 閲覧。
^ “イギリスで人種差別に抗議続く、奴隷商人の銅像を引きずり下ろし ”. BBC News (8 June 2020). 10 June 2020 閲覧。
^ “Priti Patel: Toppling Edward Colston statue 'utterly disgraceful'” (英語). Sky News . (2020年6月7日). https://news.sky.com/video/priti-patel-toppling-edward-colston-statue-utterly-disgraceful-12002452 2020年6月7日 閲覧。
^ Ross, Alex (7 June 2020). “Petition calls for statue of Bristol civil rights activist Paul Stephenson to be erected in Colston's place”
^ “The Bristol Bus Boycott of 1963 ”. Black History 365 (7 October 2019). 8 June 2020 閲覧。
^ Davidson, Alan (1999). The Oxford Companion to Food . Oxford University Press. p. 114 . ISBN 978-0-19-211579-9 . https://archive.org/details/oxfordcompaniont00davi_0/page/114
^ Historic England . "Guildhall, City of Bristol (1282368)" . National Heritage List for England (英語). 2019年8月26日閲覧 。
^ Cobb, Peter G. (1994). “The Stained Glass of St. Mary Redcliffe, Bristol” . Transactions of the Bristol and Gloucestershire Archaeological Society 112 : 150. http://www2.glos.ac.uk/bgas/tbgas/v112/bg112143.pdf .
^ “A Statement on Colston Windows ”. Bristol Cathedral (16 June 2020). 27 June 2020 閲覧。
^ “A Statement on Colston Windows - Bristol Cathedral ”. bristol-cathedral.co.uk . Anglican Diocese of Bristol. 31 October 2020 閲覧。
^ Edmunds, Chantalle (2 October 2020). “Incoming Dean not convinced removing the Edward Colston stained-glass window in Bristol Cathedral is the right answer - Premier Christian News | Headlines, Breaking News, Comment & Analysis” (英語). Premier Christian News . https://premierchristian.news/en/news/article/incoming-dean-not-convinced-removing-the-edward-colston-stained-glass-window-in-bristol-cathedral-is-the-right-answer 31 October 2020 閲覧。
^ Richards, Samuel J. (September 2020). “Historical Revision in Church: Re-examining the 'Saint' Edward Colston”. Anglican and Episcopal History 89 (3): 252-254.
^ “About us ”. Colston Hall . Bristol Music Society. 7 June 2020 閲覧。
^ Morris, Steven (26 April 2017). “Bristol's Colston Hall to drop name of slave trader after protests” . The Guardian . https://www.theguardian.com/uk-news/2017/apr/26/bristol-colston-hall-to-drop-name-of-slave-trader-after-protests 7 June 2017 閲覧。
^ Ballinger, Alex (12 May 2017). “Petitions to stop Colston Hall name change reach 9k signatures” . bristolpost . https://www.bristolpost.co.uk/news/bristol-news/colston-hall-will-not-going-56636 18 October 2018 閲覧。
^ “Colston Hall music venue to be renamed Bristol Beacon ”. BBC . 23 September 2020 閲覧。
^ Yong, Michael (2 November 2017). “One of Bristol's oldest schools is not changing its name” . bristolpost . https://www.bristolpost.co.uk/news/bristol-news/colstons-girls-school-not-want-717435 18 October 2018 閲覧。
^ Yong, Michael (11 September 2018). “Colston’s Primary School starts life as Cotham Gardens after dropping slave trader's name”. Bristol Live
^ Ballinger, Alex (11 February 2019). “Edward Colston: Bristol school to remove slave trader's name from house” . BBC News . https://www.bbc.co.uk/news/uk-england-bristol-47195706 11 February 2019 閲覧。
外部リンク