エドアルド・ナヘラ
エドゥアルド・ナヘラ(Eduardo Najera)ことエドゥアルド・アロンソ・ナヘラ・ペレス(Eduardo Alonso Nájera Pérez、1976年7月11日 - )は、メキシコ・チワワ州チワワ出身の元バスケットボール選手。現在はダラス・マーベリックスのスカウトを務めている。現役時のポジションはスモールフォワード。身長203cm、体重100kg。 経歴学生時代テキサス州サンアントニオのコーナーストーンクリスチャン高校でプレイし、24.8得点15.4リバウンドの成績で州のオールファーストチームに選ばれた。 卒業後、オクラホマ大学に進学し、チームの中心選手として活躍。3年目には15.5得点、8.3リバウンドの成績で、AP通信選出のオールアメリカサードチームに選ばれ、NCAAトーナメントではエリート8まで勝ち進んだ。3年間のプレイで通算リバウンド数、スティール数、ブロック数など9つの部門で、同校記録のトップ10入りを果たした。 1997年夏季ユニバーシアード、1999年夏季ユニバーシアードにメキシコ代表として出場。1999年には、20.1得点6.8リバウンドの成績を残し、チームを第4位に導いた[1]。 NBA2000年のNBAドラフトにアーリーエントリーしたナヘラは、ヒューストン・ロケッツから2巡目38位指名を受け、メキシコ生まれの選手としては1996-97シーズンにフェニックス・サンズでプレーしたオラシオ・リアマス以来、史上2人目のNBAプレイヤーとなった[1][2]。ドラフト直後のトレードでダラス・マーベリックスに権利が移り、マブスの一員としてルーキーシーズンを迎えた[1]。1年目の2000-01シーズンは3.3得点2.4リバウンドの成績だった。 NBAでのキャリアをスタートしたと同時に、怪我との戦いも始まった。1年目から右鼠径部の故障が原因で29試合を欠場し、その後もマブスに在籍した4シーズンの間に、シーズン60試合以上出場を果たしたのは1シーズンのみだった。 2004年8月24日、ルイス・アルベルト・フローレス、クリスチャン・レイトナー、ムラデン・セクララッチ、複数のドラフト1巡指名権と共に、エリック・ダンピアー、ダン・ディッカウ、エバン・エシュメイヤー、スティーブ・ローガンとの引き換えでゴールデンステート・ウォリアーズに移籍した[3]。2005年2月24日、ルイス・フローレス、ドラフト1巡目指名権と共にニコロス・ツキティシュビリ、ロドニー・ホワイトとの引き換えでデンバー・ナゲッツに移籍した。 2006年にはメキシコのモンテレイで行われたエキシビション、ナゲッツ対ウォリアーズの試合に出場した。 2006年4月27日、チームに悪影響を及ぼすとして出場停止処分を受けたケニオン・マーティンに代わり、ロサンゼルス・クリッパーズとのプレーオフ1回戦第3戦に先発出場した。 ナゲッツでも怪我に悩まされたが、ネネイやケニオン・マーティンなどが次々とシーズンをほぼ全欠する怪我を負ったため、ナヘラはフォワード陣の穴を埋めるべく怪我を抱えながらもコートに立ち続け、06-07シーズンは自身最多の75試合に出場した。この年12月のニューヨーク・ニックスとの乱闘の際、直接乱闘をした選手ではなく、両軍の選手を引き離そうとしたが退場となった。 →詳細は「en:Knicks–Nuggets brawl」を参照
2008年7月11日、ニュージャージー・ネッツと4年間1200万ドルの契約を結んだ[4]。 2010年1月11日、クリス・ハンフリーズ、ショーン・ウィリアムズとの引き換えで古巣のダラス・マーベリックスに移籍した[5]。同年7月13日、エリック・ダンピアー、マット・キャロルと共にタイソン・チャンドラー、アレクシス・アジンサとの引き換えでシャーロット・ボブキャッツに放出された[6]。ボブキャッツでは、2シーズンプレイした後に現役を引退した。 引退後現役を引退した同年2012年、かつて所属していたマーベリックスからの要望で、マーベリックス傘下のDリーグチーム、テキサス・レジェンズのヘッドコーチに就任した。 プレイスタイル数字上の成績は地味ながらも、ダーティワークを一手に引き受け、リバウンド争いにも果敢に飛び込む名バックアッププレイヤー。チームに対する献身的なプレイとチームを活気付けるハッスルプレイは、ヘッドコーチ、チームメイトのみならず、ファンからも厚い信頼を得ている。 脚注
外部リンク
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