Quarterly, 1st & 4th: argent, a chevron between three garbs gules; (Hatton) 2nd & 3rd, argent, a chevron between three griffins, passant, wings endorsed sable (Finch)
16世紀後半から17世紀初頭の当主モイル・フィンチ(英語版)(1551-1614) は、ウェイマス選挙区(英語版)やケント選挙区(英語版)、ウィンチルシー選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員を務め、1596年から1605年にかけてはケントのハイ・シェリフ(英語版)を務めた[2]。1611年にイングランド準男爵位のケント州におけるイーストウェルの準男爵 (Baronet, of Eastwell in the County of Kent) に叙位された[3][4]。さらに彼の死後にその未亡人であるエリザベス(英語版)(1556–1634) が1623年7月5日にイングランド貴族爵位のケント州におけるメイドストンのメイドストン女子爵 (Viscountess Maidstone, of Maidstone in the County of Kent)、ついで1628年7月11日にウィンチルシー女伯爵 (Countess of Winchilsea) に叙位された。いずれも彼女の男系男子に継承される爵位である[5]。
2代伯には弟にヘニッジ・フィンチ (1580-1631) があった。その長男ヘニッジ・フィンチ(英語版)(1620-1682) は、王政復古後の1660年にイングランド準男爵位の(ローンストンの)準男爵 (Baronet "of Raunston") に叙位され、1660年から1673年までオックスフォード大学選挙区(英語版)などから選出されて庶民院議員を務めた。大法官(当時は貴族院議長を兼ねた)就任に際して1673/74年1月10日にイングランド貴族ノーサンプトン州におけるダヴェントリーのフィンチ男爵 (Baron Finch, of Daventry in the County of Northampton) に叙位され、ついで1681年5月12日にノッティンガム伯爵に叙位された[6]。1682年に彼が死去すると長男ダニエル (1647–1730)が第2代ノッティンガム伯爵を継承。彼はトーリー党の政治家として名誉革命後の政界で北部担当国務大臣や南部担当国務大臣などを歴任して活躍した。そして最晩年の1729年に又従兄弟(はとこ)にあたる6代ウィンチルシー伯が死去すると第7代ウィンチルシー伯爵位を継承した。そのためこれ以降のウィンチルシー伯爵は、ノッティンガム伯爵、ダヴェントリーのフィンチ男爵、(ローンストンの)準男爵位も保有している[5]。
^Burke's Peerage, 1934 (re:Finch, Earl of Winchilsea and Nottingham)によればサー・ウィリアム・ダグダルは"the Finch family is probably descended from Henry FitzHerbert, Chamberlain of King Henry I and ancestor of the Herbert Earls of Pembroke. They are thought to have changed their name to Finch after marriage to an heiress daughter of an earlier Finch family"と記述している