15歳のとき、彼はロンドンのUniversity College schoolへ進学した[1]。思想家としての重要な業績を挙げることが自分に可能であるという信念の形成が、このとき既に現れている。そして、彼の経歴における更に危機的な時期において、この確信が、彼の行為を決心させる決定的要因となった。彼は化学と植物学を好み、大学で2年を費やした後、1853年の末に、彼が予期しなかった、オーストラリアの新しい造幣局の試金官の仕事の提示を受けた。英国を去るという考えは好ましいものではなかったが、1847年に起こった彼の父の会社の失敗の結果、金銭的理由が極めて重要となったことから、彼はその職を引き受けた。
1862年には価値の限界効用理論の概略を述べた『経済学の一般的数学理論』("General Mathematical Theory of Political Economy")を、1863年には『金の価値における深刻な下落』("A Serious Fall in the Value of Gold")を出版した。彼によれば、生産物の追加的1単位が消費者に与える効用や価値は、消費者が既に得た生産物の単位の量(少なくとも生活を維持するだけの相当量)と逆の相関関係があるとのことだった。
彼は『石炭問題』("The Coal Question",1865年)の中で、英国の石炭供給が徐々に枯渇しつつあることへの注意を促し、それによって公的認知を得た。論理学と科学的手法に関する彼の最も重要な著作は、彼の『科学の法則』("Principles of Science",1874年)、これと並んで『経済学理論』(1871年)及び『労働関係の状態』("The State in Relation to Labour",1882年)である。
先に言及した効用理論、即ちある商品の効用の度合は、利用可能な商品の量についての連続的な数学的関数である、という理論は、そこに暗示される、経済学は本質的に数学的な科学である、という学説と共に、1862年に英国学術協会のために書かれた『経済学の一般的数学理論』での論文において、より明瞭な形で採用された。この論文は1862年にも、4年後に"Journal of the Statistical Society"に出版された時にも、多くの関心を惹き付けたようには見えない。その状況は、彼が自身の学説を完全に発展した形で送り出した『経済学理論』が現れる1871年まで続いた。
1863年の『金の価値における深刻な下落』及び1865年の『石炭問題』は彼を応用経済学及び統計学に関する文筆家として、前方のランクに置いた。これにより彼は、たとえ『経済学理論』を著さなかったとしても、19世紀の主要な経済学者の1人として記憶されたであろう。彼の経済学の著作で特に挙げるべきものとしては、大衆的な形式で書かれ、理論的というよりは記述的だが、その論法においてすばらしく新鮮かつ独創的で示唆に富む『貨幣と交換機構』("Money and the Mechanism of Exchange",1875年)、『経済学入門』("Primer on Political Economy",1878年)、『労働関係の状態』(1882年)、そして、彼の死後に出版された2冊の著作、即ち彼の生涯を通して別々に現れた論文を含む『社会的改革の方法』("Methods of Social Reform")と『通貨と金融の研究』("Investigations in Currency and Finance",1884年)がある。特に、『通貨と金融の研究』は、経済恐慌と太陽黒点との関係に関する興味深い推測を含んでおり、太陽黒点説として知られることとなる。
彼は死の直前まで、経済学に関する大規模な論文の準備に携わっており、目次を作り上げ、いくつかの章と章の一部を完成させていた。これらの断片は1905年に『経済学原理:社会の工業機構に関する論文の断片、及びその他の論文』("The Principles of Economics: a Fragment of a Treatise on the Industrial Mechanism of Society, and other Papers")というタイトルで出版された。
論理学
ジェヴォンズの論理学での出版は、経済学での出版と足並みを揃えて行われた。1864年に彼は『純粋論理学、または量とは別の質の論理学』("Pure Logic; or, the Logic of Quality apart from Quantity")と表題がつけられた小冊子を出版した。これはブールの論理体系に基いていたが、彼がその体系の誤った数学的装いと見なしたものには縛られなかった。これに続く数年間、彼は1870年に王立協会の前に展示された論理機械の組立に相当な関心を払ったが、その意味は、いかなる与えられた前提のセットからでも推論可能な結論が機械的に得られる、というものだった。1866年、彼が全ての推論の大きく普遍的な原理と見なしたものが、彼に分かり始めた。そして1869年に、彼はこの基本的学説の梗概を、『類似物の代用』("The Substitution of Similars")という表題の下で出版した。彼はその原理を、「ある事柄の真実は、それと同様な事柄の真実」(英文:"Whatever is true of a thing is true of its like.")という最も単純な形式で示し、その様々な適用を詳細に解き表した。
翌年に出版された『論理学の初等授業』("the Elementary Lessons on Logic")は、間もなく英文で最も広く読まれる論理学の初等教科書となった。その間に、彼は多くのより重要な論理学の論文を書き、それらは1874年に『科学の法則』という表題で出版された。この著作の中で彼は、『純粋論理学』と『類似物の代用』における彼の初期の著作の内容を具体化した。彼はまた、帰納法が単に演繹法の逆の使用である、という見方を表明し、発展させた。彼は明快なやり方で、蓋然性についての一般理論、そして蓋然性と帰納法との間の関係を取り扱った。彼の自然科学に関する様々な知識は、しばしば非常に細部にわたって計画された具体的で科学的な実例によって、彼が終始、論理学の学説の抽象的な特性を和らげることができるようにした。彼の帰納法についての一般理論は、ウィリアム・ヒューウェルによって述べられジョン・スチュアート・ミルによって批判された理論の復活であった。しかし、それは新しい形式に表され、ヒューウェルが反論に対して無防備な説明を行った本質的でない付属物のいくつかには縛られなかった。全体としての著作は、19世紀の英国に出現した論理学の学説として、最も有名な貢献の1つであった。主に学生が使用するための練習と問題を含む、彼の『演繹論理学の研究』("Studies in Deductive Logic")は、1880年に出版された。1877年から数年、彼はミルに関するいくつかの記事を『現代の評論』("Contemporary Review")に寄稿した。それらはその後の記事で補足するつもりであり、やがてはミルの哲学への批判として一冊の本に出版するつもりであった。これらの記事と他の1点は、彼の死後、彼の初期の論議学の論文と共に、『純粋論理学、およびその他の小品』("Pure Logic, and other Minor Works")と表題が付けられた本の中で再出版された。ミルへの批判は独創的な多くのもの、そして力強い多くのものを含んでいるが、概して、それらは彼の他の著作ほどの域に達しているとは見なされていない。彼の力強さは批評家としてではなく、独創的思想家としての力にある。彼は論理学者、経済学者、統計学者としての建設的な著作によって記憶されるであろう。
著作
1862. A General Mathematical Theory of Political Economy
Jevons & his theory on a possible ommection between sunspots & economic activity cycles, were mentioned by Lovecraft in his The Shadow out of Time as discussed by Nathaniel Wingate Peaslee just before he was abducted by the Great Race.