イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー
イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー(1125年 - 1201年6月5日)は、アッバース朝、ザンギー朝、及びアイユーブ朝に仕えた行政官僚、法学者、文筆家。一般にはサラーフッディーン(サラディン)の側近カーティブ・イマードゥッディーンとして知られる。本名はアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・ムハンマド。 生涯1125年、セルジューク朝支配下のイランのイスファハーンに生まれる[2]。若いうちにイラクのバグダードに移り、ニザーミーヤ学院で同時に自然科学、論証神学、そして様々な分野の文学を学んだ。シャーフィイー派の教授となりイスラーム法を研究していたという。 アッバース朝仕官時代バグダードにいた時にアウンヌッディーン・イブン・フバイラの愛顧を得て仕官する。イブン・フバイラは軍事的功績によってカリフのムクタフィーの宰相に任じられた人物で、アッバース朝統治下の地域では強大な権勢を誇ったが、同時に非常に評判の良い人物でもあった[3]。イマードゥッディーンはイブン・フバイラの代官として下イラクのワーシトとバスラの行政を任されることになる。 ところが1165年、イブン・フバイラが死去するとムクタフィーの後を継いでいたムスタンジドはイブン・フバイラの部下の多くを逮捕するという挙に出たため、イマードゥッディーンも獄に繋がれることになってしまう。イマードゥッディーンは人を通じて獄中からムスタンジドに頌詩を献上して解放されるところとなったが、イラクには留まらずにシリアのダマスカスへと向かった。 ザンギー朝仕官時代彼はシリアでザンギー朝のヌールッディーン・マフムードの事実上の宰相であったカマールッディーン・ムハンマドの知遇を得ることに成功し、またイマードゥッディーンのおじであるアジーズが当時ザンギー朝の高官であったナジュムッディーン・アイユーブ(サラーフッディーンの父)の知り合いであったという縁もあり、ザンギー朝に仕官することになる。 カマールッディーンの推挙により、彼は公文書の起草に携わることになった。イブン・ハッリカーンによれば、彼はこの仕事において、アラビア語もペルシア語も等しく巧みに使いこなしたという。イブン・ハッリカーンは、サラーフッディーンとイマードゥッディーンが交流を深めたのもこの頃のことであるとしている。 ヌールッディーンの信頼も厚かったようで、機密を預かる立場となってバグダードのカリフへの使節へ登用されたり、学院の教授職に任じられたり(この学院は彼のためにヌールッディーンが建てたものである)、また国務長官も務めるなど重要な職務を歴任した。 ただ、今回も主君の死に伴う混乱があり、ヌールッディーンが亡くなると、政敵による攻撃を受けたため彼は再びバグダードへ向かった。 アイユーブ朝仕官時代イマードゥッディーンは政敵の攻撃を避けるためにバグダードへ向かったが、途上で発病しモスルにとどまっていた。その折、既にエジプトに地盤を築いていたサラーフッディーンがシリアへ進軍したことを知り、彼はシリアへ引き返すことになる。 サラーフッディーン軍が駐屯していたアレッポ郊外で彼はサラーフッディーンと面会し、今度はアイユーブ朝に仕官することになる。 イマードゥッディーンはサラーフッディーンに近侍し、あまりエジプトを離れることができなかったサラーフッディーンの宰相ファーディルのシリアにおける代理を務め、ヌールッディーンに仕えていた頃と同じく文書の起草などに関わっている。また時には戦略に関する忠告も積極的に行っていたようである[4]。 サラーフッディーン死後は自宅にこもり、執筆に専念したという。1201年死去。 人物・逸話
著作
この他、イマードゥッディーンは書簡集や詩集も残している。 脚注参考文献 |