アーチボルド・ケネディ (第11代カセルス伯爵)第11代カセルス伯爵アーチボルド・ケネディ(英語: Archibald Kennedy, 11th Earl of Cassilis、1736年以前 – 1794年12月30日)は、スコットランド貴族。 生涯アーチボルド・ケネディ(Archibald Kennedy、1685年ごろ – 1763年6月14日、アレクサンダー・ケネディの息子、第3代カセルス伯爵ギルバート・ケネディの玄孫)と1人目の妻(旧姓マッサム)の三男として生まれた[1]。 イギリス海軍の士官になり、七年戦争ではスループのフラムバラ(Flamborough)に乗船して、1758年3月15日にフランスの私掠船ブローノワ(Boulonnois)を[2]、1762年12月15日に同じくフランスの私掠船のヴァミュディアン(Vermudian)を拿捕した[3]。1760年には戦況に関する手紙が『ロンドン・ガゼット』に掲載された[4]。また、リスボン駐留中に護送船団を指揮して、フランスの軍艦2隻を追い払った上、それらの2隻がブレストに入港したときには2度と就役できないと判定されるほどの大損害を与えた[1]。 1763年に父が死去すると、パヴォニアでの地所を継承した[1]。1人目の妻からニューヨークにおける大領地を与えられ、1765年にはニューヨークで最も多くの家屋を所有していると言われるに至った[1]。その後はフリゲートのコヴェントリーに乗船したが、アメリカの独立派に同情的すぎたとして指揮権を取り上げられ、パヴォニアの領地に引退した[1]。以降はイギリス当局に疑われないよう用心深く行動したが、今度はニューヨークを占領した大陸軍に親英派と疑われ、サセックス郡への移動を命じられた[1]。ケネディはこの命令に従い、数か月後にパヴォニアに戻ることを許されたが、このときには領地の半分を没収された上、パヴォニアでのタウンハウスを燃やされ、1783年にパリ条約が締結された後も返還されなかった[1]。ただし、ケネディはカセルス伯爵位の推定相続人であることを知っており、没収された領地について心をひどく痛めることはなかった[1]。 1790年2月2日に遠戚にあたる第10代カセルス伯爵デイヴィッド・ケネディが継嗣限定(entail)を定め、10代伯爵の男系子孫が断絶した場合はアーチボルド・ケネディおよびその男系子孫が遺産を継承するとした[1]。この継嗣限定ではアーチボルドがロンドンに住んでいると形容されたため、アーチボルドは1790年2月2日までにイングランドに戻ったとされる[1]。そして、1792年12月18日に10代伯爵が死去すると、その領地とカセルス伯爵位を継承、1793年3月12日に遺産継承者として正式に認定された[1]。 1794年12月30日に死去、長男アーチボルドが爵位を継承した[1]。 家族1765年6月までにキャサリン・スカイラー(Katherine Schuyler、1768年1月21日までに没、ピーター・スカイラーの娘)と結婚した[1]。2人の間に子供はいなかったが、キャサリンは広大な領地を所有しており、それを夫に与えた[1]。 1769年4月21日、アン・ワッツ(Ann Watts、1793年12月29日没、ジョン・ワッツの娘)と再婚、3男1女をもうけた[1]。
出典
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