アーガイル公爵
アーガイル公爵(英語: Duke of Argyll, スコットランド・ゲール語: Diùc Earra-Ghàidheil)は、イギリスの公爵位。スコットランドの氏族(クラン)の一つキャンベル氏族の族長であるキャンベル家は、1445年にキャンベル卿(スコットランド貴族)、1457年にアーガイル伯爵(スコットランド貴族)を与えられた。そして1701年に10代アーガイル伯アーチボルド・キャンベルがアーガイル公爵(スコットランド貴族)に叙されたのがアーガイル公爵位の始まりである。さらに1892年には8代アーガイル公ジョージ・キャンベルが連合王国貴族としてのアーガイル公爵位も与えられている。 歴史貴族に叙されるまでキャンベル家はスコットランド中西部を占める巨大なクラン(スコットランドの氏族集団)であるキャンベル氏族の族長(Chief)家系である[1]。 スコットランド西部アーガイルにあった古代王家の女系の末裔とされ、14世紀にサー・ニール・キャンベル(生年不詳-1315年)がロバート1世の側近として台頭し、ロバート1世の姉マリー・ブルースと結婚した。ニールの息子であるサー・コリン・キャンベルがアーガイル地方に広大な領地を与えられた[2]。 キャンベル卿・アーガイル伯爵キャンベル家に初めてスコットランド貴族爵位が与えられたのは、サー・コリン・キャンベルの曽孫にあたるダンカン・キャンベル(生年不詳-1453年)が1445年にキャンベル卿(Lord Campbell)に叙されたのが最初である[3]。 キャンベル卿位を継承した孫の第2代キャンベル卿コリン・キャンベル(1433年-1493年)は、西部のクランのローン卿ステュアート家の娘イザベラと結婚し、それによってキャンベル家は西部クラン最大のクランとなった[1]。彼の代からキャンベル家の長は「マッカラン・モア」と呼ばれるようになった[4]。彼は1457年にスコットランド貴族アーガイル伯爵(Earl of Argyll)、1470年にローン卿(Lord Lorne)に叙されるとともに[5]、中央政界で活躍し、スコットランド大法官やスコットランド法院長等を歴任した[6][4]。また1488年には第5代アンガス伯アーチボルド・ダグラスら他のスコットランド貴族とともにジェームズ3世廃位の軍を起こして同王を敗死に追い込んでいる[6]。 初代伯の曾孫である4代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(1507年頃-1558年)は1557年に第4代モートン伯ジェイムズ・ダグラスとともにプロテスタント信仰を誓う「第一次信仰盟約(The First Covenant, or The First Bond)」を締結しており、スコットランド内の親イングランド派政治家だった[7]。 4代伯の曾孫8代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(1607年-1661年)は1641年にチャールズ1世よりスコットランド貴族アーガイル侯爵(Marquess of Argyll)に叙され[8]、1642年にはチャールズ1世のためにスコッツガーズを創設したが、清教徒革命(イングランド内戦)では長老派としてチャールズ1世の宗教政策に反対してイングランド議会派軍に転じている。しかし国王の処刑には反対し、1651年にはチャールズ2世をスコットランド国王に擁立した。それによってオリバー・クロムウェル率いるイングランド共和国軍のスコットランド侵攻を招くと国王を見限ってクロムウェルに恭順したが、王政復古後の1661年5月に大逆罪で処刑された[1]。 その長男の9代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(1629年-1685年)は一貫して王党派として行動してクロムウェルに投獄されていたため、王政復古後もチャールズ2世から重用されたが、王弟ヨーク公ジェームズ(ジェームズ2世)とは不仲だったため、チャールズ2世崩御後にモンマスの反乱に加担し、反乱鎮圧後には大逆罪で処刑され、所領も没収された[1]。 アーガイル公爵その長男である10代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(1658年-1703年)はオランダへ渡り、オレンジ公ウィリアム(後のイングランド王ウィリアム3世、スコットランド王ウィリアム2世)に協力し、1689年にはウィリアム3世を王位につける名誉革命の成功に尽力した。その功績でアーガイル伯爵位と所領を復帰させた。1692年にウィリアム3世がスコットランドの各クランに忠誠の誓約書の提出を求めた際、グレンコウのクランのマクドナルド家だけ提出が遅れ、マクドナルド一族が皆殺しにされる事件があったが、この虐殺はウィリアム3世の命を受けた10代アーガイル伯の仕業であったという(グレンコウの虐殺)[9]。ウィリアム3世への忠勤から1701年6月23日にはアーガイル公爵(Duke of Argyll)、インヴァレリー、マル、モーヴァーン、タイリー卿(Lord of Inverary, Mull, Morvern and Tirie)、キンタイア=ローン侯爵(Marquess of Kintyre and Lorn)、ロッコウ=グレニーレ子爵(Viscount of Lochow and Glenyla)、キャンベル=コウォール伯爵(Earl of Campbell and Cowall)(全てスコットランド貴族)に叙せられた[10]。 その長男である2代アーガイル公ジョン・キャンベル(1680年-1743年)は1707年のイングランド・スコットランド合同交渉にあたってスコットランド代表を務め、イングランド優位の連合条件を呑んだ。また1715年のジャコバイトの反乱の際に鎮圧の指揮を執ったことで知られる[6]。彼は1705年11月26日にイングランド貴族爵位グリニッジ伯爵(Earl of Greenwich)、1719年4月27日にグレートブリテン貴族グリニッジ公爵(Duke of Greenwich)に叙されているが、男子相続人がなかったため、一代で絶えている[11][12]。 この2代アーガイル公と続く3代アーガイル公アーチボルド・キャンベル(1682年-1761年)の代にアーガイル公爵家のスコットランドにおける影響力は最高潮に達し、スコットランドの地方政治を手中におさめるようになった。そのためしばしばロンドンの中央政府と対立した[13]。 5代アーガイル公ジョン・キャンベル(1723年-1806年)は、軍人としてキャリアを積み、ホイッグ党の庶民院議員も務めて、1766年12月23日にはグレートブリテン貴族サンドリッジ男爵(Baron Sundridge)に叙された[14]。 その長男である6代アーガイル公ジョージ(1768年-1839年)は父からアーガイル公爵位を継承する前の1799年8月2日に母からグレートブリテン貴族ハメルドンのハミルトン男爵(Baron Hamilton of Hameldon)を継承している[15]。 8代アーガイル公ジョージ(1823年-1900年)は自由党の政治家としてインド大臣や王璽尚書などの閣僚職を歴任し、1892年8月7日には新たに連合王国貴族アーガイル公爵(Duke of Argyll)に叙された[16]。 その長男である9代アーガイル公ジョン(1845年-1914年)は、襲爵前にカナダ総督を務め、またヴィクトリア女王の四女ルイーズと結婚しているが、子供はできず、爵位は甥に移っている[17][12]。 11代アーガイル公イアン・キャンベル(1903年-1973年)はハイランド師団に属して第二次世界大戦に従軍したが、1940年のフランス戦でドイツ軍の捕虜になっている[12]。 2016年現在の当主は13代アーガイル公トーキル(1968年-)である。彼はキャンベル氏族長と地主としての仕事をしながら、ペルノ・リカールでコンサルタントも務め、スコッチ・ウイスキーを推進している[12]。 アーガイル公爵家の居城は現在に至るまでスコットランド・アーガイル・インヴァレリーにあるインヴァレリー城である。家訓は「忘れるなかれ(ラテン語: Ne obliviscaris)」[12][18]。 現当主の保有爵位現在の当主であるトーキル・キャンベルは以下の爵位を保有している[19][18]。
一覧キャンベル卿(1445年)
アーガイル伯(1457年)
アーガイル公(1701年/1892年)
法定推定相続人は現当主の長男ローン侯爵(儀礼称号)アーチー・フレデリック・キャンベル(2004-)[19]。 系図アーガイル公爵キャンベル家系図
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
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