アンバ・フィヤング
アンバ・フィヤング (またはアン・フィヤング) は、ギョルチャ氏女真族。 若い頃にヌルハチに従って以来、多数の戦功をあげ、後にアイシン・グルン (後金) の五大臣の一人に選ばれた(ほかはニョフル氏エイドゥ、グァルギヤ氏フュンドン、ドンゴ氏ホホリ、トゥンギャ氏フルハン)。 諱満文史料では基本的に「ションコロ・バトゥル (šongkoro baturu)」という称号で呼ばれる為、その本名については的然とせず、主には「アン・フィヤング」説と「アンバ・フィヤング」説の二つにわかれる。漢文の『滿洲實錄』巻1には「碩翁科羅初名諳班偏格」とあり、本名を「諳班・偏格」(普通話拼音:ànbān piāngé) とする一方、『清史稿』などは「安・費揚古」(拼音:ān fèiyánggǔ) としている。 立命館大学の増井寛也氏 (非常勤講師) に拠れば、2000年代に入って発見された「中国第一歴史档案館蔵『満文国史院档 巻号001冊号2』に満文で「amba fiyanggů」が本名であると書かれているらしく、増井は「アンバ・フィヤング」説をとっている。[1] 漢字で満洲語の音声を完全に再現することは不可能であり、「安・費揚古」も固より近い音をとったに過ぎず、漢字で読めば「アン」だが、元は「amba」であった可能性も否定できない。従って本項では増井に従って「アンバ・フィヤング」とする。 忠臣父・ワンブル (完布禄) はフジ・ガシャン[2]の人で、[3]ヌルハチにつかえた。ボオシの居城・ジャンギ[4]や、ボオランガの居城・ニマラン[5][6]の人からヌルハチを裏切るよう教唆されたが従わず、[7]孫を攫われ強要されたが、それでも志を抂げなかった。[8] アンバ・フィヤングは若い頃にヌルハチに従って以来、建国からヌルハチの死去以降も、清朝を樹立したホンタイジ、北京入城 (明清交替) を果たしたフリン (順治帝) と、代々アイシン・ギョロ氏に仕えた。下の「年表」からも分かる通り、その功績は非常に多く、当時あまたいた豪傑の中にあって、アンバ・フィヤングとロサ (労薩) は突出した存在であったとされる。[8] 年表万暦10 (1582) 年旧暦8月、フジ・ガシャンで戦捷。 万暦11 (1583) 年、ヌルハチ挙兵。ニカン・ワイランの圖倫トゥルン城を攻略。 万暦12 (1584) 年旧暦正月、ジョーギヤ・ホトンで戦捷。 万暦12 (1584) 年旧暦6月、マルドゥン・ヘチェン (馬兒墩・城) を攻略。 万暦15 (1587) 年旧暦6月、ジェチェン・アイマン (哲陳・部) を討伐。同8月、洞城不詳を攻略。 万暦16 (1588) 年旧暦9月、ワンギヤ・ホトン (王甲/完顔・城) を攻略。 万暦21 (1593) 年旧暦6月、フルギヤチ・ガシャンで戦捷。ションコロ・バトゥル (碩翁科羅・巴図魯) の称号を頂戴。 万暦21 (1593) 年旧暦9月、グレ・イ・アリンで戦捷。 万暦21 (1593) 年旧暦閏11月、ネイェン (訥殷) に進攻、路主・ソウウェン (搜穏)、セクシ (塞克什) を斬伐。 万暦27 (1599) 年、ハダ討滅。 万暦39 (1611) 年旧暦7月、ウェジ・アイマン (渥集・部) のウルグチェン (烏爾古宸)、ムレン (木倫) 二路を征討。 万暦41 (1613) 年旧暦2月、ウラ・ホトンで戦捷、ウラ・グルン滅亡。 天命元 (1616) 年旧暦7月、サハリヤン・アイマン (薩哈連・部) 討伐。アイシン・グルン (後金) 樹立に伴い五大臣に選出。 天命3 (1618) 年旧暦4月、ヌルハチが撫順攻略。張承廕の援軍の左営を撃破。 天命4 (1619) 年、サルフ・ホトンで戦捷。イェヘ討滅。 天命6 (1621) 年、瀋陽、遼陽を攻略。 順治7 (1650) 年旧暦7月、病逝。享年64歳。 順治16 (1659) 年、敏壮と追謚、記念碑建造。 一族父祖
子女
事績・栄典ダルダイ (達爾岱)アンバ・フィヤング死後、ヌルハチは属民を分割してニルを編成し、マンジュの鑲藍旗に編入した。アンバ・フィヤングの長子・ダルダイはホンタイジに事えてジャラン・イ・エジェン (甲喇額真) を務めた。明朝討伐戦では大凌河を征討し、更に臧家堡不詳防衛、錦州 (現遼寧省錦州市)、寧遠 (現遼寧省葫芦島市興城市) の奪取、李朝征伐でいづれも戦功をあげ、順治 (1645) 2年、世職のトゥワシャラ・ハファン (拖沙喇・哈番=雲騎尉) を授与された。順治 (1650) 7年、アンバ・フィヤングの過去の功績により、一等アダハ・ハファン (阿達哈・哈番=軽車都尉) に昇格。康熙52年、アンバ・フィヤングの建国時の勲功により、三等アダハ・ハファンを新たに授与され、孫・ミンダイ?(明岱) が分襲した。[8] アルダイ (阿爾岱)アルダイはホンタイジに事えてニルイ・エジェン (牛彔・額眞=佐領) を務めた。耀州 (現陝西省銅川市耀州区および咸陽市東部)?に駐箚し、対明防衛で戦功をあげたが、大凌河征討に従軍して戦死した。備禦 (=騎都尉) を授与され、子のドゥルデ (都爾徳) が襲職した。[10] ドゥルデは順治初年に刑部理事官に任命された。北京入城 (明清交替) 時には李自成を撃ち、バヤライ・トゥイ・ジャンギン (巴牙喇纛章京=護軍統領)[11][12]に任命された。豫親王・ドド (多鐸) に従って西征し、陝州 (現河南省三門峡市陝州区)?では兵を率いて山を越え、堡壘を陥落させ、更に潼関 (現陝西省渭南市潼関県) を攻略した。尋いで河南より江南に下り、南明の福王(朱由崧)を追撃して蕪湖 (現安徽省蕪湖市) に至り、舟の航行を堰き止めて[13]大勝を収めた。また、端重親王ボロ (博洛) に従って浙江を平定、福建を攻略、バヤライ・トゥイ・ジャンギンのアジゲ (阿済格)、ニカン (尼堪) を引き連れて汀州 (現福建省西部) に進攻し、唐王(聿鍵)を擊ち破った。また、鄭親王ジルガランに従って湖広を攻略し、李自成の残党・李錦らを討伐した。凱旋後、バヤライ・トゥイ・ジャンギンに真除[14]、議政大臣に任命、更にこれまでの功績から一等アスハニ・ハファン (阿思哈尼哈番=男爵) に陞叙された。康熙3 (1664) 年、死去。康熙帝より祭祀を賜り、忠襄と追謚された。[10] ショルホイ (碩爾輝)ショルホイはニルイ・エジェン (=佐領)[15]を務めた。[16] ショルホイの子・スンタ (遜塔) は父の死後襲職し、ホンタイジに能力を買われてニルイ・ジャンギン (=騎都尉)[15][17]を授与された。崇徳3 (1638) 年、戸部副理事官に任命。同冬の明朝討伐では、ベイレ・ヨト (岳託) が軍右翼を牆子嶺不詳から辺境に進行させると、スンタはジャラン・イ・エジェン (参領)[15]として[18]、ガブシヒヤン・イ・ガライ・アンバン (= 前鋒統領)[19]のテクシ?(席特庫) らに従って総督・呉阿衡を打ち破り、北京をこえて山東を攻略した。崇徳4 (1639) 年の春、辺境から出たところを明兵に追跡され始めた為、バヤライ・トゥイ・ジャンギン (=護軍統領)[11][12]・トゥライ(図頼) らに従って撃攘した。明がハラチン (喀喇沁) 営不詳に侵攻すると、スンタは援軍を率いて明兵を潰走させた。崇徳6 (1641) 年、錦州 (現遼寧省錦州市) を包囲した。総督・洪承疇が救援のため松山に駐箚すると、ジャラン・イ・エジェン[15]のラムバイ?(藍拝) とともに攻撃し、堡壘三箇所を破壊した。明兵は雨に紛れて右翼を襲ったが、再びラムバイとともに撃攘した。崇徳8 (1643) 年、ジャラン・イ・エジェン (参領)[15]に任命[18]。[16] 順治元 (1644) 年、北京入城 (明清交替) に従軍して李自成を破り、三等ジャラン・イ・ジャンギン (=三等軽車都尉)[15][17]に昇格した。順治3 (1646) 年、大将軍の粛親王ホーゲの張献忠討伐に従い西征した。道中、グサ・イ・エジェン (固山額真=統領) のバハナ?(巴哈納) らとともに逆将・賀珍[20]を撃ち破り、軍を進めて西充 (現四川省南充市西充県) に駐箚した。張献忠の軍は抗戦したが、スンタとグサ・イ・エジェン (=統領)・李国翰らの攻撃に敗れた。順治5 (1648) 年、凱旋後、刑部理事官を兼任し、勅命により防衛のため淮安 (現江蘇省淮安市) に移駐した。順治6 (1649) 年、莒州 (現山東省日照市と臨沂市北部) の土賊・曹良臣が海州不詳を攻略し、知州の張懋勳と州同の李士麟が死亡した。スンタが援軍に駆けつけると、曹良臣が逃げて馬髻山に拠ったため、進撃して撃ち破った。この頃、浙淮塩務理事と兼戸部侍郎銜[21]が設置され、フリン (順治帝) はスンタを揚州 (現江蘇省揚州市) に移駐させた。順治7 (1650) 年、督理漕運戸部侍郎[22]に改め、淮安になお駐在。順治8 (1651) 年、任務を解かれて帰京し、満洲鑲藍旗のメイレン・イ・エジェン (梅勒額真=副都統) に任命。優詔により三等アスハニ・ハファン (阿思哈尼哈番=男爵)[17]に昇格。順治13 (1656) 年、工部尚書に任命。順治15 (1658) 年、監修した壇殿が竣工し、二等アスハニ・ハファン (二等男爵) に昇級[17]。尋いで蒙古鑲藍旗[23]のグサ・イ・エジェンに任命。順治17 (1659) 年、尚書の職を解かれ、都統専任となった。間もなく勅命により定西大将軍のアイシンガ (愛星阿) の軍に従って雲南に降った。順治18 (1670) 年旧暦10月、シャン族土司・木邦不詳と聯合して緬甸 (現ミャンマー) に向い、南明桂王・朱由榔 (永暦帝) を捕縛して帰還。功労により一等アスハニ・ハファン・トゥワシャラ・ハファン (一等男爵兼一雲騎尉)に昇級[24]。[16] 康熙4 (1665) 年,マンジュの鑲藍旗都統に転任。同年12月、死去。忠襄と追謚された。[16] マシタイ (馬錫泰)マシタイは父の一等アスハニ・ハファン・トゥワシャラ・ハファン (一等男爵兼一雲騎尉) を承襲し、ニルイ・ジャンギン (佐領) を務め、前鋒参領を兼任した。康熙年間、信郡王オジャ(鄂札)に従ってチャハル部ブルニ (布爾尼) を征討した。達禄に駐箚すると、ブルニは山岡に駐屯し、火器で抗戦した。マシタイは前鋒を率いて天険に迫ると、四戦全勝し、三等ジンキニ・ハファン (精奇尼哈番=子爵) に昇格した。また、呉三桂討伐に従軍し、マンジュの鑲藍旗副都統に昇任。湖広から広西に出て雲南に下り、石門坎 (現貴州省)、黄草壩 (現貴州省興義市) の諸戦に参加した。さらに雲南省城を攻略すると、楚雄人名を追撃し、呉三桂の将軍・馬宝と巴養元らを降した。凱旋後、一等ジンキニ・ハファン (一等子爵) に昇級。死後は孫・徳彝が一等アスハニ・ハファン (一等男爵) を承襲し、乾隆初年、一等男爵に定封[25]された。[26] 脚註
参照史籍
研究書
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