アンドレ・ジャピー
アンドレ・ジャピー (André Japy, 1904年-1974年)はフランスの飛行家。テリトワール・ド・ベルフォール県ボークール(fr:Beaucourt)生まれ[1][2]。時計製造で成功したコンテ地方の名家ジャピー一族の出身で、フランス航空界のパイオニアである。1938年には国際航空連盟 FAI から「ルイ・ブレリオ・メダル」を受賞した。1936年には日本で墜落事故を起こした。 その活躍ぶり1935年8月21日、100馬力のルノーエンジンを搭載したコードロン C.600 エーグロン (Caudron C.600 Aiglon) 単葉機で、パリからオスロまでを往復した(14時間45分、2,880kmの飛行)[3]。 1935年9月1日、同日にパリからオランまでを往復している(飛行時間16時間25分)。 1935年9月22日、同日にパリからチュニスまでを往復している。 1936年7月31日、コードロン・ルノー・シムーンでパリとアルジェを5時間3分で結ぶ。アルジェで58分のストップオーバーをした後、5時間48分で帰還。 1936年8月6日、 パリとモスクワを途中着陸しながら16時間5分で結んでいる。 1936年8月8日、モスクワとパリをノンストップフライト9時間50分で結んでいる。 1936年11月19日、フランスと日本を75時間15分で結び、14,000km以上の距離を飛行した。香港から東京へ向かう途中、佐賀県の脊振山に激突し墜落。 1938年1月26日、アンリ・ドゥートシュ・ド・ラ・ムルトの1937年賞は、アンドレ・ジャピーの南仏イストル飛行場・ジブチ間の長距離飛行に対して授与された。 一度も破られなかった記録: 1936年11月15日、コードロン・ルノー・シムーンでパリからハノイまで時速180kmで単独飛行した。 記録への挑戦1935年12月29日午前7時1分、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは整備士のプレヴォを伴って、コードロン・ルノー・シムーンで離陸した。数日前にパリ-サイゴン間を3日15時間で飛行したアンドレ・ジャピーの記録を破ろうとしていた。12月31日の夜、飛行機はリビアの砂漠に墜落した。水も食料もない4日間の流浪が始まったが、思いがけない救出があった。この事故を記録した作家の原稿は、『Terre des hommes(人間の土地)』の第7章に再構成されて登場するが、サン=テグジュペリの遺産相続人とEspace Saint-Exupéry協会からサザビーズに寄托された。20万から30万ユーロと見積もられたこの58ページの初稿は、2009年6月17日にオークションにかけられた。それに先立ち、この現代の英雄に敬意を表して、サザビーズはリビア長距離飛行の歴史を辿る展覧会を無料で公開している。 日本での墜落事故1936年、ジャピーはフランス航空省によるパリ-東京間100時間の懸賞飛行に挑戦し、パリ郊外にあるル・ブルジェ空港を出発、ダマスカス・カラチ・アラハバッド・ハノイ・香港に立ち寄った。 ハノイ到着までの所要時間は51時間と、新記録の樹立は有望視されていたが[4]、 香港を出発して東京を目指す道中、12,000km以上の距離を飛行した後、彼のコードロン・ルノー・シムーン(登録番号7078)は嵐に巻き込まれ、 同年11月19日、佐賀県脊振村(現・神埼市)の脊振山に墜落。炭焼き人夫に発見された後、脊振村の住民達に救助された[5]。 左大腿骨骨折などの重傷を負っていたことから、福岡の九州帝国大学病院に搬送されて治療を受けた。 翌1937年4月に東京ロンドン間94時間飛行を成功させた飯沼正明と塚越賢爾がフランスのジャビーの自宅を訪ねた際には、入院中の高度医療に感謝し、日欧横断に再挑戦したいと語ったが第二次大戦により実現しなかった[6]。飯沼らの東京ロンドン飛行はイギリスのジョージ六世戴冠式を取材する新聞社の企画によるもので、当時ソ連領空内が飛行禁止となっていたため、ジャビーが南ルートの飛行計画を支援していた[7]。 また、背振山で墜落したジャピ機は、方向舵だけが無傷で残り、佐藤博 (航空工学者) の保管を経て、日本航空協会が航空会館に展示している[6]。 なお、パリ東京間レースでは、ジャビーに続き、1937年5月26日にマルセル・ドレ(fr:Marcel Doret)の乗ったコードロンC635シムーン機が高知県の戸原海岸に不時着し、機体は大破、助け出されたドレは号泣したという[8][9]。現在、事故現場近くに「ドレー機不時着の地」という記念碑がある[10]。ドレの事故に先立つ同年2月にも、フランス人飛行士デニスとリベ-ルがパリ東京間の記録に挑戦し失敗しており、こののちフランス航空省は同レースを中止した[6][11]。 晩年第二次世界大戦後にタヒチに移り住み、離島空路開拓のため島々に滑走路を作ったり、海難救助飛行など幅広い分野で活躍し、自然保護運動にも力を注ぎ、1974年に歿した[6]。 没後1991年、元教師で児童文学作家の権藤千秋が5年間の調査を経て、この出来事を本に著し『飛べ!赤い翼』[12]を出版した[13]。また2016年には、高樹のぶ子がこのエピソードに着想を得て、恋愛小説「オライオン飛行」[14]を発表している。 1996年には事故地の脊振村(現・神埼市)とジャピーの出身地ボークールが姉妹都市締結をし、以降交流が続いている[15]。 アンドレ・ジャピーの兄弟の子孫であるニコラ・ジャピー(企業家)が副会長を務める「コードロン・シムーン機復元協会」がポントワーズ飛行場でシムーン機を復元作業しており、2025年にフランス国内でテスト飛行とデモンストレーション飛行を行い、2026年に、アンドレが飛べなかった佐賀東京間のフライトを行なう「赤い翼プロジェクト」が進行中である。 関連書
脚注
外部リンク |