アンドレア・ドーリア 、またはアンドレア・ドリア (Andrea Doria) は、イタリア王立海軍 (Regia Marina) が保有し[注釈 1]、第一次世界大戦と第二次世界大戦で運用した弩級戦艦。
カイオ・ドゥイリオ級戦艦の2番艦だが、本艦をネームシップとして、アンドレア・ドリア級戦艦とする複数の資料がある[注釈 2]。
艦名は16世紀のジェノヴァ共和国の提督アンドレア・ドーリアに由来する[9][注釈 3]。
姉妹艦はカイオ・ドゥイリオ (Caio Duilio) [注釈 4]。
艦歴
建造
カイオ・ドゥイリオ級戦艦(アンドレア・ドリア級戦艦)は、コンテ・ディ・カブール級戦艦の改良型である。本艦はラ・スペツィア造船所で1912年(明治45年)3月24日、起工。1913年(大正2年)3月30日に進水し、1916年(大正5年)3月13日に竣工した[9]。第一次世界大戦開戦時、イタリア海軍はモレノ級戦艦(リバダビア級戦艦)[注釈 5]を買収しようとしたが不調に終わり、イタリア初の超弩級戦艦(フランチェスコ・カラッチョロ級)の建造も中止された。この結果、本艦がイタリア海軍が建造した最後の弩級戦艦になった。
第一次世界大戦から海軍休日時代
1918年の初めは「アンドレア・ドーリア」はターラントに配備されていたが、11月10日にコルフ島へ移され1919年2月19日までそこにとどまった。それからタラントに戻り、次いで7月4日にコンスタンティノープルへと向かい同月9日に到着した。そこで連合国艦隊に加わり11月9日まで留まった後タラントに戻った。1920年、ヴェルサイユ条約によってイタリアに割り当てられた旧ドイツ艦艇を引き取るための人員確保のためイタリア艦隊の大半は一時的に解役され、その期間「アンドレア・ドーリア」は実働可能な唯一の戦艦であった。11月、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国との間でラパッロ条約が調印された。同月、「アンドレア・ドーリア」はフューメのガブリエーレ・ダンヌンツィオによる反乱鎮圧のため派遣された。12月24日にフューメ攻撃に加わり、二日後には反乱に加わっていた駆逐艦「エスペロ」に対して76 mm砲による斉射を3回行って大きな損害を与えた。「アンドレア・ドーリア」はダンヌンツィオの本拠も砲撃し、彼を負傷させた。ダンヌンツィオは12月31日に降伏した[17]。
1923年(大正12年)のギリシャとのコルフ島事件では「アンドレア・ドーリア」を含むイタリア艦隊が島へ派遣された。コルフ島事件の解決後、「アンドレア・ドーリア」はスペインを訪問した。1925年(大正14年)1月16日、「アンドレア・ドーリア」はリスボンを訪問しヴァスコ・ダ・ガマの死没後400年記念祭に参加した。続いて2月7日から6月までラ・スペツィアで改修を実施。シリアで内乱が起きるとイタリア国民の避難が必要になった場合に備えて「アンドレア・ドーリア」は駆逐艦部隊と共に東地中海へ向かった。シリアでの騒乱が沈静化した12月12日まで「アンドレア・ドーリア」はレロス島に停泊していた。
1932年(昭和7年)8月、タラントで予備役となる。ヨーロッパで建艦競争が再燃する中で、イタリア海軍は新世代戦艦(リットリオ級)の建造に乗り出す。だがフランス海軍のダンケルク級戦艦(1931年12月24日、起工)やリシュリュー級戦艦(1935年10月22日、起工)が先行する中で、リットリオ級戦艦(2隻とも1934年10月、起工)は中々完成しなかった[注釈 6]。
このような経緯を踏まえ、ワシントン海軍軍縮条約で保有を許された主力艦より弩級戦艦4隻に大改造を実施して、フランス海軍の新鋭戦艦(ダンケルク級)に対抗することにした[注釈 7]。
1937年(昭和12年)3月30日にトリエステに到着し、4月8日からカンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコの造船所で大規模な改装工事が開始された[17]。カヴール級の改造実績や、建造中のリットリオ級戦艦を参考にしたので、上部構造物や兵装配置がリットリオ級と似たものとなっている。
第二次世界大戦から冷戦期
1940年(昭和15年)6月10日、イタリア王国は第二次世界大戦に枢軸陣営として参戦、地中海戦線が形成された(地中海攻防戦)。カブール級2隻(カブール、チェーザレ)は開戦に間に合ったが、本級の就役は遅れた。「アンドレア・ドーリア」の改装は同年10月に完了し、10月26日にタラントで第5戦隊 (V Divisione Corazzate) に編入された。「アンドレア・ドーリア」は11月11日から12日の夜のMB8作戦にともなうタラント空襲では損害は受けず[注釈 8]、12日にナポリへ移された[32][33][注釈 9]。
12月初め、イタリア海軍は艦隊の再編を行ったが、「アンドレア・ドーリア」は戦艦「ジュリオ・チェザーレ」とともに第5戦隊に留まった[35]。1941年(昭和16年)1月初め、「アンドレア・ドーリア」は戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」とともにイギリス軍のMC4作戦(エクセス作戦)に対して出撃したが、イギリス軍部隊を捕捉できず1月11日に帰投した[32][注釈 10]。
2月9日、「アンドレア・ドーリア」などからなるイタリア艦隊はジェノヴァ砲撃を敢行したイギリス艦隊(H部隊)を捕捉しようとしたものの、誤情報に振り回されるなどしたため捕捉に失敗した[38][注釈 11]。ラスター作戦にともなって生起した3月下旬のマタパン岬沖海戦に、本艦は参加していない。タラント空襲とマタパン岬沖海戦でリットリオ級戦艦2隻が大破してしまったので、イタリア改装戦艦の行動も慎重にならざるを得なくなった。またイタリアの燃料不足も、イタリア戦艦の行動に影響を与えはじめた。
イタリア艦隊は地中海の要所マルタ島へむかうマルタ輸送船団の撃滅を企図して何度か出撃したが、不首尾におわった。1941年後半になると、イギリス地中海艦隊やH部隊の主力艦が相次いで被害を受ける[注釈 12]。
同時に、北アフリカ戦線にむかう枢軸陣営輸送船団が連合国の小規模水上艦部隊(K部隊など)に襲撃されて大損害を受ける事例が生じ[注釈 13]、イタリア海軍の巡洋艦や戦艦も船団護衛任務に投入された。
同年12月、「アンドレア・ドーリア」はイタリアからリビアのベンガジへの大規模船団の護衛作戦(M41作戦)に参加した。次いでM42作戦に参加し[32]、その際に第1次シルテ湾海戦が発生した。1942年(昭和17年)1月にもリビアへの船団護衛作戦(M43作戦)に参加したが、作戦中に機械的な問題が発生し港に引き返した。以後、燃料不足のため、イタリア戦艦の行動が制限される。1943年(昭和18年)9月8日にイタリアが連合国に降伏するまで活動は乏しかった[32]。
バドリオ伊国首相より休戦宣言が発表されると、イタリア海軍艦艇群のうち、本艦を含めたグループは英領マルタのバレッタ港に入港した[注釈 14]。
1944年(昭和19年)6月8日までそこで抑留された。「アンドレア・ドーリア」は1945年(昭和20年)3月14日にタラントに戻った。
同年5月に「アンドレア・ドーリア」はシラクサへ移動し、1949年(昭和24年)12月13日までそこにとどまった。それから1950年(昭和25年)12月9日までと1951年(昭和26年)3月9日から1953年(昭和28年)5月までイタリア艦隊の旗艦をつとめた。他のイタリア戦艦が除籍されたり戦利艦として引き渡される中で、アンドレア・ドリア級戦艦2隻はイタリアにとどまった。その後は砲術練習艦となり、1956年(昭和31年)9月16日に退役。11月1日に除籍され、ラ・スペツィアで解体された[32]。
出典
注釈
- ^ 【伊太利】 戰艦アンドレア・ドリア(一九一四年五月竣工)正規排水量二二九三〇噸、時速二三節。同年竣工のデュリオと同級たり。他の戰艦カヴール及びギュリオ・セザーレと同様式を以て排水量二二五〇〇噸となすべき筈の處豫定の噸數を超過するに至つた。
- ^ 姉妹艦カイオ・デュリオ (Caio Duilio) をドリア級2番艦とする文献もある。
- ^ 初代「アンドレア・ドリア」は、ルッジェーロ・ディ・ラウリア級戦艦のアンドレア・ドリア(英語版、イタリア語版)であった。
- ^ 戰艦 “ドリア Doria” 全要目{排水量21,555噸 速力22節 備砲30糎砲13門、15糎砲16門 魚雷發射管(45糎水中)2門 起工1912年3月 竣工1915年5月 建造所 スペチア造船所} 同型艦“デュイリオ Duilio”21,555噸 建造中のもの2隻“ヴイトリオ・ヴエネト Vittorio Venedo” “リツトリオ Littorio”(2隻共35,000噸) 二三年前までは“アンドレア・ドリア”と言つてゐたが、最近は短く“ドリア”と呼んでゐる。主砲は30糎3聯装三基 2聯装二基で其配置は艦型圖に見られる通りである。外に14ポンド砲13門、14ポンド高角砲6門をもつてゐる。戰艦としては舊型のものと言へようが最近其兵装に根本的改造を加へた。伊國戰艦勢力としては他に“カヴール Cavour”及び“ケーザル Cesare”21,818噸があるが、これも目下舊型の面影ない程にスペチア海軍工廠で改装中であつて、これは前檣樓カタパルトなど列國海軍の戰艦型式に從つてゐるらしい。現有勢力は以上の4隻86,532噸である。
- ^ アルゼンチン海軍がアメリカ合衆国に発注して建造した弩級戦艦。
- ^ 戰艦 “チエーザレ Cesre” 全要目{排水量25,000噸 速力27節 備砲32糎砲10門、10糎砲24門(兩用砲ならん)建造1911年度目下改装中} 伊太利戰艦を論ずるにあたつては、まづこのところ四年越しで建造中の35,000噸戰艦“ヴイトリオ・ヴヱネト Vittorio Venedo” “リトリオ Littorio”の二艦を忘却してはなるまい。このやうな大艦の建造に伊國海軍がまだ慣れてゐないのも、建造が遅れてゐる一つの理由かも知れないが、佛國の同級の戰艦に對抗し、益々その愼重さを加へてゐると考へるのが至當ではなからうか。現在持つてゐる戰艦中には殆ど見るべきものがないが、その中にあつて獨りチヱーザレのみは大々的改装をほどこされ、寫眞に見るやうな姿となつてやがて再現せんとしてゐる。その艦型は“ネルソン”“ダンケルク”を聯想させるものがある。主砲は口徑を増して32糎砲となり、高角砲も10糎四聯装である。從つて排水量も増加し21,818噸から2,500噸増したが、舊に倍する機關によつて速力22節を出すともいはれてゐる。完成後の大體の要目は全長169.8米、幅28.04米、平均吃水8.54米。速力も恐らく27節位出る機關を据えるのではないかといふ噂である。伊國戰艦計6隻(内未成2隻)。
- ^ 伊太利 一九三四-四〇年度海軍豫算中七億リラの其の後の増加があり、總計二十七億三百萬リラとなる。之はリットリオ級の新三五,〇〇〇噸級戰艦四隻を含み、一九四一年迄に伊太利艦隊をば言明したる通り總計七〇〇,〇〇〇噸の勢力に引上げんとする企圖に從ふものである。
戰艦 三五,〇〇〇噸級のリットリオ及ヴィツトリオは完成し、前者の寫眞は爰に掲載(畧)せる通りである。兩艦の特性中主砲八糎砲九門、契約速力三〇節が含まれるが、一九三九年十月の公試に依れば此の速力を超過したと言はれ二る。兩艦は一九三四年十月起工以來、建造に要せし期間は五箇年少しく餘であつた。然し此の級の第三艦及び第四艦の行程は比較的急速なる進捗を示し、イムペロは去る十一月十五日ゼノアのセストリ・ボネンテに於けるアンサルド造船所により造船臺にあること僅か十八箇月の後進水した。/ 本年は舊型戰艦アンドレア・ドリア及カイオ・デュイリオの改装が完了する筈であり、之はコンテ・デイ・カヴール及ギウリオ・セザールの改装と同様の方針で進捗しつゝあるものである。(以下略)
- ^ イタリア戦艦3隻(リットリオ、カヴール、デュリオ)が被雷して着底した。姉妹艦カイオ・デュリオは1941年(昭和16年)5月まで戦列を離れた。
- ^ 11月27日のスパルティヴェント岬沖海戦に参加したイタリア戦艦は2隻(ヴェネト、チェザーレ)で、本艦は参加していない。
- ^ なおドイツ空軍 (Luftwaffe) のJu 87急降下爆撃機により、地中海艦隊の装甲空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) が大破し、軽巡1隻も沈没した。
- ^ タラント空襲で損傷した姉妹艦デゥリオが同港で修理中だったが、被害を免れている。
- ^ H部隊に対するUボート作戦で、主力艦2隻(バーラム、アーク・ロイヤル)沈没、イギリス地中海艦隊に対するアレクサンドリア港奇襲。
- ^ 11月中旬のデュースブルク船団の戦い、12月中旬のボン岬沖海戦など。
- ^ 海外特殊情報 第百六十三號 昭和一八、九、一六(木) 情報局情報課/◎伊艦隊マルタに逃亡[49] ロイター=アルジエー十一日發/北伊反樞軸軍司令部は十一日正午「戰艦四隻、巡洋艦七隻、驅逐艦六隻からなるイタリア艦隊がマルタ島へ到着した」旨發表した。更にラ・ヴアレツタ(マルタ島)来電によれば十日ラ・ヴアレツタ港に到着したイタリア艦隊はスベチア及びタラントから逃亡して來たものといはれ戰艦四隻のうちにはヴイクトリオ・ヴエネト號(三,五〇〇〇噸) アンドレア・ドリア號(二,三六二二噸) ギウリオ・チヱサーレテ(二、三六二二噸) が含まれ、他の一隻の名稱は判明しない。又巡洋艦七隻のうちにはルイギ・カルドナ號(五,〇〇八噸) 、ボンベオ・マグノ號(判読不明)が含まれてゐる様である。逃亡戰艦及び巡洋艦の性能次の通り
(ヴェネト略)一、アンドレア・ドリア號(ギウリオ・チヱザーレ號も同)一九一三年竣工(ツヱザーレ號は一九一一年)の老朽艦でその後改修され乗組員は千百九十八名、十二.六吋砲十門、七吋砲十二門、三.九吋高角砲八門を有してゐる。(ルイギ・カルドナ、ボンベオ・マグノ略) 尚イタリア艦隊は公海で聯合軍艦隊に投降し後者の誘導によつてマルタ其他の港に入つたものである。戰艦一隻は九日午後サルデニア附近でドイツ空軍に撃沈された。
BBC=ラ・ヴアレツタ(マルタ島)十二日發 十一日午後四時三十分イタリア艦隊司令長官はラ・ヴアレツタに上陸しイタリア艦隊を正式に引渡した。イタリア艦隊司令長官は聯合軍地中海艦隊司令長官カニンガム提督と約一時間會談した。會談後カニンガムはイタリア艦隊降伏の結果聯合軍は多くの艦艇を對日戰に差向けることが出來るであらうと言明した。(以下略)
脚注
- ^ a b Gardiner & Gray, p. 260
- ^ a b Whitley, p. 167
- ^ a b c d e Whitley, p. 168
- ^ Rohwer, p. 27
- ^ Rohwer, p. 51
- ^ The Italian Navy in World War II, pp.66-67
- ^ 「伊艦隊マルタに逃亡(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03025350900 pp.1-2
参考文献
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- ジョン・ジョーダン『戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS』石橋孝夫(訳)、株式会社ホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988年11月。ISBN 4-938461-35-8。
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- 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『新装版 福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、2009年3月。ISBN 978-4-7698-1426-9。
- ドナルド・マッキンタイヤー「3.独・伊の主力艦、英空母に散る」『空母 日米機動部隊の激突』寺井義守 訳、株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫23〉、1985年10月。ISBN 4-383-02415-7。
- 月間雑誌「丸」編集部編『丸季刊 全特集 写真集 世界の戦艦 仏伊ソ、ほか10ヶ国の戦艦のすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977』株式会社潮書房〈丸 Graphic・Quarterly 第29号〉、1977年7月。
- 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1。
- Gardiner, Robert; Gray, Randal, eds (1984). Conway's All the World's Fighting Ships: 1906–1922. Annapolis: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-907-3
- Giorgerini, Giorgio (2002). La Guerra Italiana sul Mare: la Marina Tra Vittoria e Sconfitta: 1940-1943. Milan: Mondadori. ISBN 9788804501503
- Whitley, M. J. (1998). Battleships of World War II. Annapolis: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-184-X
- Marc'Antonio Bragadin, The Italian Navy in World War II, 1957, Naval Institute
関連項目