アルブレヒト・オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク
アルブレヒト・オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク(Albrecht Eugen Herzog von Württemberg, 1895年1月8日 - 1954年6月24日)は、ドイツ・ヴュルテンベルク王国の王族、ヴュルテンベルク公(Herzog von Württemberg)。 生涯ヴュルテンベルク公アルブレヒトとその妻のオーストリア大公女マルガレーテ・ゾフィーの間の第2子、次男として生まれた[1]。全名はアルブレヒト・オイゲン・マリア・フィリップ・カール・ヨーゼフ・フォルトゥナートゥス(Albrecht Eugen Maria Philipp Carl Joseph Fortunatus)。 1922年、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世の遺言により、上シレジア地方のカールスルーエ(現在のポーランド領オポーレ県ナムィスウフ郡ポクイ)の所領を相続した[2]。父と兄フィリップ・アルブレヒトが王家の家督を継ぐのに対し、アルブレヒト・オイゲンは1903年にニコラウス公が死去して以来、相続人の絶えていたカールスルーエを伝領することを定められたのである。 1924年1月24日にバート・メルゲントハイムにおいて、ブルガリア王ボリス3世の妹ナデジダと結婚した。夫妻は1928年頃までカールスルーエ城で暮らしたが、その後は実家のヴュルテンベルクに居を移している[2]。1945年の春、赤軍の占領によってアルブレヒト・オイゲンはカールスルーエの所領を失った。1954年、グミュント(バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区オストアルプ郡)で死去した。 子女妻のブルガリア王女ナデジダとの間に3男2女5人の子女をもうけた[3]。
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