アマド・ラティフ・カマルディン
アマド・ラティフ・カマルディン(Ahmad Latiff Khamarudin、1979年5月29日 - )は、シンガポールの元サッカー選手。元シンガポール代表。ポジションはFWもしくはMF。 概要攻撃的ミッドフィールダーあるいはストライカーとして卓越した能力を発揮した彼は、ファンディ・アマドと並べて称される事もあった。しかし、代表やクラブでの規律の乱れが重なると「悪童」と揶揄されるようになった。その他にも多数の綽名がつけられたが、その決定力やピッチ外での行動から「シンガポールサッカーの悪童」と呼ばれる事も多く、それ以外ではその金色に染めた髪の毛から「金髪の爆弾」とも呼ばれた。 クラブ歴1996年にシンガポール警察でサッカー選手になり、翌年ゲイラン・ユナイテッドFCに移籍した。この頃から彼のパフォーマンスはアジアの多くのサッカー監督の目に留まり、アジアサッカー有数の選手になるとの期待もされたが、それは実現する事が無かった。 1999年にはシンガポール・アームド・フォーシズFCに移籍し、翌年の同クラブのSリーグ制覇に貢献した。2000年には隣国インドネシアのプルシカボ・ボゴールに移籍し、その翌年に香港の愉園を経て、再びシンガポール・アームド・フォーシズFCに復帰した。シンガポール・アームド・フォーシズFCではストライカーと云うよりはゲームメーカーとしての活躍が多かった。 2004年にはウッドランド・ウェリントンFCに移籍したものの、シンガポール・アームド・フォーシズFC時代のように上手くは行かなかった。 2006年に突如マレーシア・プレミアリーグに所属するジョホールFAに移籍する事が発表された。この当時のジョホールFAにはアイデ・イスカンダルも居り、マレーシアでのシーズンが終わると彼と共にタンピネス・ローバースFCへレンタル移籍となった[1]。 2007年のSリーグ開幕に先駆けて彼は、かつて所属したウッドランド・ウェリントンFCに復帰した。監督であったヨーグ・シュタインブルーナーから主将に任命され、シンガポール・リーグカップでは初優勝を飾った。 2008年7月2日には再びシンガポール・アームド・フォーシズFCに移籍した後の初出場となったAFCチャンピオンズリーグの予選で、PSMSメダンから得点を奪い、グループステージ進出に貢献した。更に、グループステージ第5戦で上海緑地申花足球倶楽部からも得点を奪い、同杯で初めての得点を獲得した。 2010年末には再びタンピネス・ローバースFCに移籍し、2011年、2012年のリーグ制覇に貢献した。その後、2013年にタンジョン・パガー・ユナイテッドFCに移籍、2014年末で同クラブが解散となると、それと共に選手を引退した。 代表歴1997年5月24日のレバノン代表戦で代表初出場を果たした。 1998年には彼のパフォーマンスによってベトナム代表を下して東南アジアサッカー選手権を制し、同国に初めての優勝を齎した。 2006年には彼のジョホールFAでの好調な成績から、ラドイコ・アヴラモヴィッチ監督に再び招集されたが、アラブ首長国連邦で行われたアジアカップのイラク代表戦で25分で交代させられた事に対し怒って以降は代表に招集されなくなった[2]。 個人成績2009年以降の成績表[3]
AFC主催大会での出場記録AFC主催大会での得点
代表での得点一覧
タイトルクラブ
代表
個人
参考文献
外部リンク
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