アハマド・レザ・アベドザデ
アハマドレザ・アベドザデ(ペルシア語: احمدرضا عابدزاده、1966年5月25日 - )は、イランの元サッカー選手、現サッカー指導者。元イラン代表主将。ポジションはGK。 1998 FIFAワールドカップ予選の大陸間プレーオフでメルボルンの悲劇を演出し、イラン代表を20年ぶりのワールドカップに導いた名ゴールキーパーであり、イラン史上最高のゴールキーパーの一人とされている[要出典]。 クラブ歴タム・イスファハーンSCで選手となった。その後、エステグラルFC、セパハンFCを経て、ヒルズィ(ペルセポリスFC)に所属した。ヒルズィでは1996年から2000年にかけて主将を務めた。 代表歴1984年、18歳の時にU-20代表に招集された。U-20代表で好調なパフォーマンスを見せると1987年にパルフィズ・デハダリ監督によってA代表に招集された。1987年2月27日のクウェート代表戦で初出場、1失点はしたものの2-1の勝利に終わった。1990年アジア競技大会では決勝の北朝鮮代表戦でPKを2回止めた。大会をつうじて2失点しか許さなかった彼であるが、その両失点もPKであり、堅守を見せた。 1998 FIFAワールドカップ予選にて日本代表がワールドカップ初出場を決めた1997年11月16日の日本対イラン戦(ジョホールバルの歓喜)にも出場。Vゴールで敗戦したものの、延長戦後半までもつれ込む守備を見せた。その後の大陸プレーオフではオーストラリア代表との引分を2戦とも作りだし(オーストラリア側の視点からメルボルンの悲劇と呼ばれている)、イランを1978 FIFAワールドカップ以来のワールドカップ出場に導いた。本戦の初戦となったユーゴスラビア代表戦は怪我で欠場したが、アメリカ合衆国代表、ドイツ代表戦ではキャプテンマークを巻いて出場した。このグループで3位と云う快挙を残し、グループステージ最終戦を終えてイラン代表のワールドカップが終わった後、代表引退を発表した。 監督歴2001年には発作に苦しみ選手引退を決断した。その後闘病生活を続けているものの、今日でも副作用に苦しんでいる。2007年3月11日に母親が亡くなった時にも発作を起こした。 そのような容体ではあるが、選手引退後は多数のクラブでゴールキーパーコーチを務めている。2001年にはサイパFC、2005年にはエステグラル・アフファーズFC、2008年から2009年にかけてはヒルズィ、2010年にはスティール・アジンFC、2011年から2012年にはアメリカのロサンゼルス・ブルースFCでその職務を全うした。その後、ラーフ・アハーンFCのゴールキーパーコーチとなった。 プレースタイルその尋常ではない安定性によって代表のゴールを10年以上に亘って守ってきた彼は「アジアの鷹」と呼ばれている。イラン史上最高のゴールキーパーは彼かナセル・ヘジャジと言われる程の評価がなされている[要出典]。 個人1988年、23歳の時に結婚し、娘と息子が一人ずついる。息子のアミル・アベドザデもサッカー選手であり、ゴールキーパーである。また、彼はファストフード店を経営している。 脚注外部リンク
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